優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

ただ生きる

今の私は、生きたいか居なくなりたいかで言うと、どちらなんだろう。

夫がいる世界なら、断然生きたい。あの大変な日々であろうと、夫の回復までやり切りたい。まだまだ、あと何年だってやる。なんなら一生回復しなくたっていい。夫が死んでしまうより、ずっといい。その中でも幸せを感じてもらえるように何でも何でも取り組む。2人で生きられるなら、それだけで私の夢は叶う。そんなこと、夫が生きていたときは、全然思えてなかった。真反対の言葉を夫に畳みかけてた。自分にとって何より大切なのは夫であることはずっとわかっていたけど、夫がいた上で、その他の人生プランがずたずたになってしまうことを恐れていた。そんな焦りを夫に伝えていた時期があった。その時の言葉がいつまでも夫に残ってしまっていたのではないか。そうじゃないと信じたい。信じられる瞬間もあるけど、追い討ちをかけたと強く後悔するときもある。

じゃあ、夫がいない世界はどうか。

こうして夫が消えてしまって、私だけになってしまった。いま誰にも気づかれず、私が居なくなれるなら、居なくなりたい。無意識に全部終わっているのがいい。気づいたら人生終わってた、みたいなやつ。夫がいない世界を受け入れて生きることは、大変だ。色んな意味で、やらなくていいなら、早く退出したい。

ただ、気づかず居なくなる方式は運だ。そんな一瞬であの世にいける機会が自分に回ってくるかはわからない。そのために色々不摂生をするとか、健康面を崩すとかできるのかもしれないけど、別にそういう努力をしたいわけでもない。隕石でも落ちてくれたら一番良い。

それならと逝くタイミングを日時設定しちゃうと、それはそれでしっくりこない。明後日死にますみたいなタイムリミットを出されると、変にそわそわして、生きてる間にやっておくことをがめつく考えてしまいそう。いろんな人に連絡取ったり、会いに行ったり、思い出の場所巡りをしたり。自分が居なくなるって思ったら、夫そっちのけで自分に意識がフォーカスして、女友達と居酒屋でも行って楽しんでしまいそう。そして、当日になって、「やっぱタンマ!」と思っちゃいそう。

それで、おそらくこういう状態に陥った人は、ただ生きるということを続けるのだと思う。ただ生きる。これがとても大変。早く退出したいと思いながら、ただ存在する。楽しくないパーティに1人で座らされてるようなもん。早く帰りたいのに、これが何十年も続く。しかも、その数時間前にはそのパーティで夫を寄ってたかって亡くならせてしまった。そんなパーティ、最低だ。そんなパーティのどこに救いがあるのだろう。私は記憶喪失にでもならないと、そんなもん楽しめないし、楽しむ資格ないとか思って居るだけって、どんな拷問?死刑の方がいいよね。更生って、大変。夫に経験させた苦しみを考えたら、私自身が更生しないといけないと思うし、せいぜい拷問受けろよと自分で思うけど、自分は自分だからね。自分可愛がり。自分大切論。ほんとに活路は宗教しかないんじゃないかと思う。何か超越的な存在がないと、俗世間的な中では考えの落とし所がない。いや、きっとあると思ってるから、まだ生きてるんだけど。

この生きるか死ぬか問題は、夫の意向とは関係ない。べつに夫は、みんみんも早くこっち来なよとは思っていないと思う。夫は、生きたかったはずだから。もっとたくさん旅行したり、たくさん美味しいもの食べたり、たくさん美しい景色を見たり、たくさん私に笑いかけてくれるつもりだったと思う。大好きなお互いの子供を産んで、大好きな家族と一緒に幸せに暮らすつもりだったと思う。毎年の誕生日は私の喜ぶプレゼントを準備して、たまにあの優しい目で見つめてくれるつもりだったと思う。夫は生きて、まだやることが山ほどあった。

それでも、もし寂しいって思ってくれてるなら、仏パワーを使って、私をそちらの世界に召喚してほしい。私は、夫がいない世界なんて、耐えられない。切なさと、悲しみで、脳味噌の99.995%を占拠されてるから、生活できない。あれほどの幸福感を知っているからこそ、なくなった今、自分もろとも崩れた。机に座りながら、私ってなんだったっけ、って呆然とする時間が毎日ある。夫と一緒に歩みたいのに、歩めないって、どういうことだ。どれほどの地獄なんだろう。生きることは、本当に大変。