優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

生き方探し(生きる意味その2)

生と死について考えたことのない私は、そんなジャンルの本を読むなり、もっと勉強するなりした方がいいのかもしれない。本当は、夫が亡くなる前にそれに気づきたかったんだけど。
自分一人で考えていると、夫がいなくなって寂しいから、もう生きたくないと思う。この思考が、どう駄目なのか、わからない。なんとなく駄目なんだろうと思う。けど何故駄目なんだろう。私は35歳までものすごく幸せだったから、ここで終わればだいぶ満足な人生だ。この後だって、また新しい人生の生きがいを見つけたり、驚くほど素敵な男性が現れるかもしれない。40歳では暖かい家庭を築き、ささやかな幸せを感じているかもしれない。それはそれで幸せだろうと思う。そんな可能性をわかっていても、それより今はもうこれまでの人生を第一章で完結させたいと思う。今までは夫と一緒だった人生。夫がいなくなって、これ以上自分の人生だけが伸びていくことにとても苦痛を感じる。
お腹がいっぱいなら食べない自由とか、持ち物が多ければ断捨離する自由はあるのに、人生ここまでと終了させる自由がないのは何故なんだろう。周りの人が悲しむのは実体験でわかる。でも、私がいなくなったところで、それは今この世の誰にとっても配偶者を亡くすほどの衝撃は生み出さないし、周りは周りで夫を亡くした私が望んだことだとわかってくれる気もする。夫も悲しませるかもしれない。それだけは少し引っかかるかな。
生きたくないけど、死にたいわけじゃない。死に伴う痛いのも怖いのも苦しいのも、嫌。大体、夫みたいに美しく死ねない。夫の死に方は審美的に悲しいほどパーフェクトだった。
これまで当然のように考えていた、死んだら駄目な理由をもっと知りたい。それがわかれば諦めがついて生きるのかもしれない。あるいはそんな理由はないとわかれば、私を止めるものがなくなって、回り回ってやっぱり生きたいかもなんて思うのかもしれない。結局死にたくはないから、生き方を探しているんだと思う。
こうやってブログを書きまくっているのも、生きた世界で私が存在し続けるための私なりの対処法。夫について、伏せて、伏せて、伏せ続けなければならない状況に耐えかねて、ブログを書くことで、夫の素晴らしさを誰かに伝えたかったのかもしれない。こういう行動の先で、私はまた生きようとしているのだろうか?そうだとしても、認めたくないけど。
今の自分が前と大きく変わったのは、命が惜しくなくなったこと。元々、夜道を歩くのさえビビりで緊張したのに、今はいくらでもどこまででも歩ける。今のうちに、前なら怖くて出来なかったことをやろうかな。そんな感じで、今のこの時間を使ってみようかな。ま、きっと当面は、相変わらず寝転がりながら考えてるだけなんだけど。
夫と生きたいんだから、1人じゃ生きたくないんだよね。夫と一緒だった時間が、今やどんなに苦しかった時だって、極楽に思える。いいなあ。