優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

自己分析 〜悲しみ方の変遷〜

私のブログの文章を何らかのAIなりに分析させたら、使ってる言葉の系統とか意味合いとかから、今の私の心理状態をあぶりだせたりするのかな。

夫が亡くなってから、今まで、こうして一つの時間軸の中で自分の気持ちや考えを書き連ねているけど、そこに連続性があるのか、傾向があるのか、変化があるのか、自分ではよくわからない。

亡くなった直後は、やや淡々としていた。呆然としていたという表現もできるのかもしれないけど、むしろ夫が死んだということを感情抜きに、一つの事実として捉えていた、ある種冷静な状態だった気がする。夫が亡くなった時に着ていた衣服も、病院に「おいて行っていいですか」と聞いた。火葬だって、なるべく早くしてほしくて、結局葬儀の関係で3日後になったけど、最初は2日後でお願いしていた。亡くなった時の衣服にしても、亡くなった後の体にしても、そのままにしておいても、どうしようもない、と考えるのはおかしな判断ではないと思う。でも、不思議なことに1日、1日と過ぎる内に、衣服は当然取っておきたいと思ったし、火葬だっていつまでも先延ばしにして、部屋で一緒に暮らしたいとすら思った。いつの時点の私が正気で、いつが周りから見て要注意の状態かは、こうして書き出してみると、よくわからない。必ずしも、傷は癒えていっているわけではなく、自分から塩をすり込んでいるようにも思える。悲しみに浸らないと、気が済まないような状態。

火葬の後から、私の心理状態は比較的同じようなところを行ったり来たりしていると思う。でも、悲しみ方は少し違うかもしれない。亡くなった直後は、衝動的な涙みたいなものが頻繁に起こったし、泣く時間にしても、1回につき長く続いた。最近は、仕事の途中や、食事の途中、あるいはなんの途中でもない時間に、常に脳の80%くらいを占拠している夫のことが、ブワッと100%に急上昇して、涙が溢れて、すぐにおさまる、みたいな発作的な悲しみ方が増えた。あと、涙が出ない悲しみ方も増えた。涙がでないのは、実は一番苦しい。苦しいということを表出させることも、消化することもできずに、ただ心の中が苦しいことは、とても苦しい。

私はもともと感情が豊かだし、特に喜びと悲しみは表に出すほうなので、この堂々と表に出せない悲しみ・苦しみが初めての体験で、けっこう消耗している気がする。

今日は、アパートの退去がほぼほぼ終わり、たくさんの夫グッズと共に実家に帰ってきた。早く自分の部屋を片付けて、夫とのワンダーランド並みに夫グッズを可愛く並べて、年末年始は夫ワールドにこれでもかと浸る時間にしたい。毎日夫の服しか着ないし、夫に一人で話しかけまくってやる。なんだか、とことんそういう時間を持たないと、消化できない気もしてきた。

やっぱり、私は、とことん体質だな。とことん愛してるからな。