記事の件数が200を超えた。
書き始めた頃は、とにかく気持ちが溢れてくるので、それをどこかに公開する形で置きたいと思っていた。一人で抱えていると苦しくて、誰かに聞いて欲しくて、でもとても誰かにお願いして割いてもらえる時間には収まらないほどに、思いが次から次から次から次へと吹き出していた。
今も、その気持ちのまま。溢れてどうしようもない気持ちを、ここにずっと書いている。何のために書くのかな。どうして書くのかな。私にとっては苦しいときに文章を書くことで、息苦しくて爆発しそうな気持ちが和らぐ作用がある。頭の中でぐるぐる回っている、よくわからない思いを文章にすることで、その一瞬を切り出して、少しだけ自分の足を止めて、考えられるという効果もある。考えることを通して、自分が何かの境地に達せられるとも思っている。その境地が諦めであってほしくはなくて、本望では夫の死を丸ごとちゃぶ台返しのようにひっくり返したい。でもそんなことができないこともわかっている。だから、いつか諦めという境地に達するしかないのかなと悲観している。悲観していることが、唯一の道なんだから、もう悲観というのか、それが現実というのか。そんなことに加えて、私はとても欲張りな性格なので、これまで自分がいかに間違っていたかということについて、後悔と反省をし尽くすという、無限の欲求を持っている。きっとこのブログは自分の悪口ブログになっている。大嫌いなやつをずっと攻撃している。
200本も書いていれば、何か気持ちの変化があっただろうかと頭をよぎるけど、そんなこともない。良い変化はないのだけど、悪化しているわけでもない。そもそも夫が死んだという絶対的な悲しみは変わらないので、私の気持ちを良くするか、悪くするということしか、できることがない。これはどんな拷問だろう。やっぱり、夫がいない世界にいるのは拷問だ。夫があんな苦しみを経験したことも、拷問だ。
こんな文章を書いているんだから、私は救いを求めてるんだよなあ。夫が死んで悲しいという当然のことを、そのまま受け入れようとせずに、死が覆るものではないと知りながら、その事後の世界で色々な言葉をこねくり回して、自分の気の持ちようを変えようとしている。もうそのまま悲しんどけよと言いたくなるけど、こうまでしてずっと抗っているのは、なんなんだろう。自分でも、よくわからない。