気持ちや考えの乱気流がひどい。
日によって違うし、時間帯でだって違う。これまで自分の気持ちがわからないとか、コントロールできないという体験はしたことがなかった。いつだって、自分の体調も、気分も、エンジン全開の絶好調人間だった。自分で自分を制御できないことは、こんなにフラストレーションが溜まるなんて、知らなかった。
確かに、認知症や心の病などで、イライラすることがあると読んだことがある。これまでは、それが症状の一部なのかと思っていた。医学的にはそれが症状なのか、副次的なことなのかはわからないけど、とにかく私が今感じているフラストレーションは、それと似ていると思う。そうか、これなのか、と初めて実体験を通してしっくりきた。
次は一体どんな気持ちになるんだ?と予測がつかない。何かの波が来たことを感じると、それを捕まえて、顔を近づけて何者なのか確認したいのだけど、なかなか捕まえることができない。そのまま気持ちだけ苦しく、ウンウン唸る。それで、あれか?これか?といろんな感情を当てはめる。悲しめば良いのか、悔いればよいのか、責めればよいのか、自分の中で夫の死に対して抱くあらゆる感情を当てはめて、しっくりくるものを見つけた時に、ようやくやることが見つかった気になる。
それでしばしその気持ちの放出と消化に取り組んで、気持ちが楽になって、それでさあと思うと、また気持ちをざわざわとさせる次の波がやってくる。またその波にふさわしい感情を探す自分がいる。
波は自分への問いを乗せてやってくることもある。例えば今は、ふと「夫って死んだのかな?」と亡くなった初日のようにトボけた疑問が頭に浮かんだ。もちろん、そんなこと本当はわかっている。それで、死んだのだから、自分に言い聞かせなければ、今更何を考えてるんだと急に不安になる。そのことを改めて自分に言い聞かせるための方法を探し出す。夫の写真を見れば良いのか、手紙を読み直せば良いのか、音声を探せば良いのか、人柄を思い出せば良いのか、わからない。この絶えず私の中で循環し、不安をかき立ててくる何かに、どうしようもない歯痒さ、フラストレーション、そして恐らく積み重なったときにはイライラみたいなものを感じる。
人間が思い通りに自分の思考を制御できないということは、こういう体験なんだ。夫は、この苦しみと2年間も闘っていたんだ。夫にとっては、もっともっと、ずっと激烈な感情となって襲ってきていたと思うし、不安なんて甘い言葉じゃなかったと思う。ある夜、夫と一緒にコタツに座っていて、自分の思考をコントロールできない苦しみを、たくさん話してくれたことがあった。あの時、夫が私に説明をしてくれて、本当に嬉しかった。私の反応はわざとらしかったかな。よくわかってなかったもんな。この苦しみや、悔しさは、わからなかった。
こんなことなら、夫が生きてるうちからこの状態になれていたら、もっとわかってあげられたのにな。体験していないと、わからないことが多すぎた。死んでから一人で追体験しているなんて、なんということだ。想像ではとても達せられないよ、こんな境地。
改めて書き出してみると、能動的な感情表出から逆転して行っていることに気づいた。得体の知れない波に合わせて感情を生み出すことは、やっぱりおかしい。
この波にはいちいち対応しない方がいいのかもしれない。もっと自然に湧き上がる感情を大切にしよう。夫探しの探検隊は、本日業務終了〜。。。。になるとよいのだけど。