優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

息切れしそう

夫が亡くなったのが11月だったので、忌引きの一週間が明けてからは、ずっと年末年始の休みを目標に仕事をしてきた。

年末年始になったら、夫のことを思う存分考えよう。朝から晩まで夫のことだけ思い浮かべて過ごそう、と思ってた。早く年末年始になれ!ずーっと、それだけが頭にあった。
その先のプランは、特になかった。
 
もう年も明けて、会社も再開する。ノープランの期間に、いよいよ突入してしまう。
ここからは、ただ延々と、長すぎるマラソンが始まる。始まる前の今から、既に息苦しい。
夫が亡くなったことを知っている人からは、もう四十九日も終わって、そろそろ元気を取り戻したと期待されるかもしれない。そんな期待も無理はない。配偶者の死を経験するまで、私だって、親戚の死と配偶者の死がどう違うか、正直知らなかった。体験してみて、私の場合は、別物だった。経験として、異なるものだった。
 
私の場合、夫は私自身の存在と不可分みたいだ。夫がいなくなって、自分の実存そのものの危機すら感じる。自分がこの世に存在する意味のとても大きな部分、大きすぎてそれが欠けたら成り立たなくなるくらいの部分を、夫が担っていた。だから、今はガラガラ崩れた私の体が、かろうじて糸で繋がってて、全部引きずって歩いているような、そんな状態。
だから、50日も経てば元気だろうと思う気持ちもわかるのだけど、それが、どっこい、全く、微塵も、そんなことがない。
 
しかも、私の気持ちはまだこれからも落ちるんだと思う。夫が亡くなってから、私はずっとこれまでの経緯や、当日の振り返りをしている。夫が亡くなった実感はまだ湧かないことが多い。この後、私の未体験ゾーンとして、夫のいない現在や未来、そして夫の死の実感や、確信が降りかかってくるのだと思う。それをなんとなくやり過ごすことが自分にできるのか、わからない。なんとなくでは済まないのではと思う。そうなると、これまで以上に苦しい時間かもしれないなと、無力感を感じる。
 
最近、時々、夫が亡くなったことの実感が瞬間的に湧くことがあって、次のフェーズの怖さを垣間見ている気持ちになる。フッと実感した瞬間、恐ろしいものを見た時に絶叫したいような、そんな平常心を掻き乱す感覚に囚われる。それで、すぐに意識を切り替えるため、文章を書いてみたりしている。文章を書いている間は、自分の中に湧き上がる恐ろしさを言葉に置き換えて、未知の感情を自分にとって了解可能なものに変換できる。これが、私には助け舟になっている。この舟がなかったら、どうなっていたか、わからない。
 
長いマラソンの休憩を、一体どこで、どう入れて行こう。
弱ったな。プランが、やっぱり、ないや。