優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

自我に割り込まれる感じ

今日は、夫の最後の数ヶ月について、たくさん考えている。

夫は亡くなるだいぶ前に、もし自分が亡くなることがあれば、誰も葬儀には呼ばないでほしいと言っていた。誰か呼ぶとしても、みんみんと、自分の親だけにしてと言っていた。会話の最後には、みんみんだけで対応してと言っていた。

私は、夫の体調が一番悪いときも、夫と共に生きていた。でも、私が隣にいても体調が燻る夫を見て、夫の体調不良の原因は、2人の外にあると思うようになった。私は、妻という立場は替えもきいてしまう、薄っぺらい存在であると思っていた。きっと、親の方が深くて意味のある存在なのだろう、と思った。でも、亡くなってから気づいたことは、夫が一番信頼して、存在を託すほどの相手が、私であったということだ。それは、夫が生前伝えてくれたように、私だけに自分の最期を見てほしいという言葉にも表れていたのだと思う。夫の一番の、一番の、一番の相手は、私だったんだ。

こんなにも自分の存在に依ってくれていた人の役に立てなかったことが、悔しい。夫が窮地に陥ったとき、力強く支えてくれるのは、最後まで見放さないのは、きっとみんみんであると思ってくれていただろう。私自身、そのつもりでずっと取り組んできたけれど、夫が亡くなったことで、その糸が切れたことを認めるしかなかった。

私は、夫の役に立つことができなかった。夫を絶望から救うという、夫が信じてくれていたであろう私の役割を、果たすことができなかった。

私が一番大切な存在であったのならば、私が巻き込もうと奮闘した人々は、結局夫にとっての何だったのだろうか?

そんな人たちを巻き込むよりも、私が主体となって夫と向き合うことが大切だったのだろうか。

夫にたくさんの苦悩と無力感を与えた人々を、私はどのように扱えばよかったのだろうか。

夫が立ち上がろうとしても鉛のように重くぶら下がる人々を、私はどうすればよかったのだろうか。

それとも、そんなことさえ、私が言っているだけで、夫の考えはまた異なったのだろうか。

「みんみんも母親との葛藤、あるんじゃないの?自我に、割り込まれる感じ」

今年の1月に、夫から投げかけられた問い。

「私の自我は一本の柱として存在するから、そこに母親に割り込まれることはない」と答えた。

自我に割り込まれるとは、何なのだろうか。

割り込まれた挙句に、苦しいときに駆け寄ってくれなかったその存在とは、何なのだろうか。

私は、夫の役に立ちたかった。

ただ、それだけ。