優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

レモンケーキ

過去数年間、夫が体調を崩してからというもの、夫の苦しみの理由をずっと考えていた。私の中で、夫が体調を崩した原因は、夢の挫折をきっかけとして、生い立ちとか、性格とか、何か長い時間に亘る夫の苦しみが一気に噴出したのだと解釈していた。亡くなった後は、自分の中でそれがそのまま亡くなった理由にもなっていた。

夫には、子どもの頃から温めてきた夢があった。

2日ほど前に、夫が残してくれた作品を初めてくらいにひろげてみた。夫が一度きりの人生と言って挑戦を望んだ道。私は挑戦できる環境をつくることが私の役割だと思っていた。大好きな夫が望むことを応援したかった。

夫は挑戦の道がひらけた時、とても喜んでいた。苦しい人生だったけど、ようやく夢に向かえると思ったのだろう。でも、本気で挑戦したら、きっと思っていた何倍も、何倍も、大変だったのだろう。それは夢の大きさとか、本気度とかの問題ではない。芸術とは、自分で自分をナイフで切りつけるような作業なのだと思う。自分の将来も未来も見えない中、朝から晩まで、ただ自分を切りつけて向き合う作業は、誰だって、苦しい。

夫が夢にかけた3年間、私は夫が弱音を吐くのをきいたことがほぼなかった。この間、夫は黙々と作業をしていた。私は、妻の立場としてはただ夫にプレッシャーをかけてないということで、自分のパフォーマンスに満足していた。「最近どうなの」とか、「いつになったら」とか口うるさく言わない自分が正しいと思っていた。でも、夫からすれば、恐らく私は無関心に見えただろう。そして実際、私はあまり関心がなかったのだと思う。本当は、夫はずっと聞いて欲しかったのかもしれない。自分からは、口にできないから。自分があれほどに私に夢を語っておきながら、つらいなんて言うことは許されないと思ったから。夫のことだから、きっとそう思っていたのだと思う。

3年目になり、2人は海外に渡った。環境は更に過酷になり、過酷な中で夫の目標は更に上昇した。それまで地元の中学にいた優等生が、高校から落ちぶれる姿と似ている。大変な場所に行くと、目標は膨らみ、それだけ自分はちっぽけになる。

体調を崩す直前に、夫は挫折を経験した。無気力に過ごす夫に、私は何度か声をかけていた。夫はきっとこの時、自分の苦しみを私に話してくれている。でも、私にはその記憶がない。

挫折とは本来、本人がそのタイミングを決めるものだ。夫が挫折したように見えた時、私は、まだ夫ができると思っていたし、少し落ち込んだ後、またそのうち上を向くだろうと思い込んでいた。本当は、あの時に夫の声に真摯に耳を傾けて、挫折した悲しみや、不安について一緒に話すべきだった。あるいは、そのもっともっと前から、日々の思いや考えを聞いていれば、安易に「また上を向く」なんて思わなかっただろう。私は、夫の血の滲むような努力を過小評価していたと思う。見ていなかったから、聞いていなかったから、知る由もなかった。

過去の日記を振り返ると、確かに夫と似た話をしたことがあった。今年の9月、夫は挫折の苦しみを語ってくれた。自分に才能があると信じていたのに、あの時ようやくないと気付いたこと。それがとても苦しかったが、みんみんに苦悩を聞いてもらえなかったこと。みんみん自身、とても大変な中にいたことはわかっているが、それでも自分にはみんみんしかいなかったこと。聞いてもらえないことが、苦しかったこと。自分は自分自身のことで苦しかったのに、みんみんは未来について話していたこと。自分は、未来について話せなかったこと。

その時だって、私は夫に詫びている。今日ほどの実感は持てていなかったものの、夫が思いを言葉にしてくれたことが嬉しかったし、夫が言ったことは全てしっくりきた。でも、今ならもっと、もっと、実感を持ってこの話が聞けると思う。夫は、本当に大変な挑戦に挑んで、全力で戦った後に、挫折という称号を手に入れたんだ。また上を向けるような、生半可な挑戦をしていたのでは、全然ない。その夫の真剣さを、私は今、ようやく理解できた。

夫はこの日、朝食にレモンケーキを食べていた。食べながら、「みんみん、これいる?すごく美味しくて、一人で食べるのが申し訳ない気がする」と言って、一切れ分けてくれた。私はすごく嬉しくて、泣きながらその一切れを食べた。夫は続けて、「この角のところも、おいしいの。食べる?」と言って、砂糖で固まった角っこのところも切ってくれた。あの甘くて、酸っぱくて、バターたっぷりの味が、忘れられない。