私の役割は、苦しむ夫の隣で普段通りに生き生きと暮らすことなんかじゃなくて、夫と一緒に、苦しむことだったんだろうな。
私自身が夫の苦しみに入り込んだときにしか、心なんて開いてくれるわけない。仕事を頑張って、おしゃれもして、楽しそうに友達と話してる私に、「いつまでも待ってるよ」なんて言われても、優しさなんて感じなかっただろうな。
私は私の言い分がある。生き生きとしないと、私が潰れてしまうと思ってた。笑って、元気に過ごして、泣くのは一人のとき、洗面所とか、帰り道とか、そんなよくわからない場所で泣いていた。私がオロオロするのもよくないと思っていた。夫が変に負担を感じてしまうと思っていた。だから鼻歌まじりに過ごしているのがいいのかと思ってた。でも、結局自分が一番それが楽だったんだよね。自分が潰れたら、終わってしまうと思ってた。
多分、いろんな人がいるんだと思う。夫は長期戦じゃなくて、超絶な苦しみの短期決戦だったんだと思う。だから、そんな長期戦に持ち込むような悠々な態度を私がとっても、合わなかった。夫は自分の体調が悪いのに仕事に精を出す私を見て、心から応援してくれながらも、私が人として夫と別人であるということを、深く、深く悲しんだのかな。こんなに自分が苦しいときに、一番わかって欲しい人すら、別次元にいられてしまう。この別人であるということの残酷さ。絶対的な孤独感。ましてや私は全く関係ない人物ではない。夫の苦しみが始まったときに、一緒にいた人物なのに。それなのに、全部の原因と帰結を夫の話にしてしまっていた。
私にあの時、何ができただろう。夫が自分に向き合っていたように、私が私に向き合う必要があった。私は、夫に感謝したり、愛情を伝えたり、そんなポジティブで空っぽな感情を上乗せしていくことしか能がなかったから。私は他人事のように夫を見るのではなくて、支えるのでもなくて、過去を掘り起こして、自分が夫をどう傷つけたのか、どう悲しませたのか、どうすればよかったのか、もっと真摯に聞くべきだった。夫の発言をたくさん書き留めていた私でさえ、こういう考えにいたらなかったことに、保身とはいかに怖いことかと実感する。
「みんみんは耳を貸さなかった」
「みんみんに聞いてもらえないことが苦しかった」
これに対する回答は、「ごめん」だけじゃない。もっと、何時間も、何日も、何ヶ月も、考え込むべき夫の声だったんだと思う。私は、ようやく、今年の夏くらいからその本当の意味を感じ始めていたけど、それでも考え込むのは一時的だった。夫のことを2年間苦しめている自分の態度を、私は1時間も悩んでいない。夫はただこの言葉を吐き出したいのではない。信じているからこそこの言葉を口にして、それに対する私の心の反応を待っていただろうに。私はしばし反省したあとで、その晩、夫に対して私の至らないところを指摘してくれたことを感謝していた。ズレてる。私の感性は、間違っていた。そんな夫の話にすべきじゃない。お前自身の問題なんだ。私の大馬鹿者。
伝えたい相手がこの世にいないってことは、こんなに悲しいことなんだな。夫に幸せな気持ちになってもらえない。私なりに、こんなに想っているのにな。願っているのにな。この憎たらしい頭で考えているのに。でも、夫のような人には、この思考の片手間なところも、気楽なところも、考えが浅はかなところも、全部見えてしまっていたんだろうな。本当の気持ちしか、夫には伝わらないから。
夫とのつながりをこんなにああだこうだと考えて、その時の2人の行動とかやりとりを思い出して、こんなに何かにたどり着こうとしているのに、横を向けば夫の遺影がドーンとあって、ドーンと終わる。
この先に、進めさせてもらえない。もう、全部おわっちゃったからね。
いつか集大成として、詫び状を天まで届く長さで書くしかない。