優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

人の死を実感するとは?

前言撤回。人が亡くなったことを実感って、やっぱりできないのかも。

自分にとって大切だった人で、これまで亡くなった人たちを思い出す。ひいおばあちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、大叔母さん、大伯父さん、おばさん・・・・同年代で亡くなったのは、夫が初めてかもしれない。同級生でも、先輩後輩でも、体調を崩している人はいるけど、亡くなった人なんて私の周りにはいない。

どの人についても、亡くなった直後はしばらく思い出して涙したり、もう会えないんだって自分の中で何度も噛み締めて悲しくなったりして。月命日にはしんみりカウントダウンして、あの日、この時間ならまだ生きてたなとか考えたりして。それで亡くなったことを定期的に考えるんだけど、亡くなった実感が湧くのとはちょっと違う。

実感ってなんだろう。存在するものは「ある」ことを実感できるんだけど、ないことは、実感できない。ここにはいないな、とか、しばらく会ってないな、とは思えるんだけど、亡くなったことを実感はできない。このニュアンスの違いはなんだろう。私はきっといつまでも夫が亡くなったことは実感せずに、どこか遠くの街にいるような感覚で生きていくのかな。それでも時折2人の思い出を思い出して、それを2度とできないなあってじわじわ泣くのかな。それで亡くなったんだもんなあ、って実感できてないながらも、自分に言い聞かせるのかな。

実感しないもう一つの理由は、人の死は、ありのままに受け止めるにはあまりに悲しくて苦しいことだからかもしれない。自分が話して愛して一緒に笑った人が、もうどう逆立ちしたってこの私の生命の中では会えないと思うと、とてつもなく息苦しくなる。それよりは、その人がいないことの寂しさを、ふわふわ〜と、なんとなく、ぼんやり考えるくらいがちょうどいい。

アパートに帰っていた昨日は、視線をどこに置いても、夫がこの世から消えたことを何度も思い知らされて、まさに実感に至る階段を上っている感じだったのかもしれない。だから耐え難くて、苦しくなったのかな。夫にお似合いの洋服も、お気に入りのコーヒーマグも、可愛いマグネットも、その持ち主はこの世界にいなくて、ただそのまま、そのまま。生活の舞台は全部揃っているのに、その登場人物だけ現れない違和感は、まさにないものを痛感するには十分だった。