優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

宇宙からの贈りもの

この死別のプロセスとは、本当に辛いものだ。

どう辛いか、文章にすることも辛いくらい、本当に辛い。

本能的には否定したいことを、信じたくないことを、受け入れがたいことを、受け入れざるを得なくて、屈していくようなプロセスだと思う。死という事実に直面して、人は抗わずに受け入れられる対象と、抗い続けたくなる対象がいるんだと思う。きっと、自分にとって身近で、人生に影響力の大きい人ほど、いなくなったという変化は受け入れ難い。夫は、私が抗い続けてでも生きていると信じたい人。とても諦めることができない。

11月に亡くなってから、ずっと根詰めて夫のことを考えている。夫を亡くならせてしまうという、私の人生最大の失敗に、打ちのめされてきた。3月くらいになって、考えが一巡して、少し空白の時間とか、戯けるような顔も家族に見せられるようになった。4月に入り、また別の感情がある。この苦しみを経験し続けることからくる疲労感というのだろうか。出口のない息苦しさ。それなのに追い討ちのように忍び寄ってくる、夫が死んだということの実感。まるで、表面でぱっくりと割れていた傷口はかさぶたができたのに、傷口の中は、奥に奥に侵食されていくような感覚。でも、そこに傷があるという事実には、慣れてきたので、日常生活は多少平常化していくようにも見える。

この後の心のプロセスも、私は恐れている。この先にあるのは、夫が亡くなっていること、もう2度と会えないということを、私が身を以て実感してしまうことだ。実は、実感したくないと、ずっと思っている。逃げ回っている。怖すぎて回避している。それでも、瞬間的に実感が湧いてしまうこともある。そんな時は、夫の遺影の前で、いても立ってもいられなくなって、叫びたくなる。あの生身の人であった夫が、こんな額縁に入った写真一枚になってしまったことを、私は全然受け入れていないし、実感もしたくないのだ。

人によっては、この受け入れという段階は踏まない人もいるのかもしれない。よく、亡くなった相手について「〇〇は長期出張に行ったことにしてる」という声も聞く。うちの夫くんの場合は、働いてなかったから、長期出張は行けない(と、また夫くんの傷口に塩を塗ることを言う)。じゃあ、何なら良いだろう。そんなにアクティブじゃないから、1人旅もないだろうし。留学とかならいいか。かっこいいし、夫くんも喜ぶかな・・・。

でも、これには一つ問題がある。夫が亡くなってすぐの時から、私は自分が今後も生きるのであれば、また誰かと出会いたいし、家庭を持って、子供を産むのだと思っていた。それは、過去のブログの記事を遡れば、しっかり書いている。(この確信みたいなものは、実は最近はどんどん弱くなっていて、生涯独身で夫くん一筋もいいかなとか、生涯って言っても早めに閉じたいなとか思う。むしろ今閉じたいと思って、強制的な閉じ方を調べてしまう日もある。)でも、もし私がまた万が一誰かと出会おうと思うのであれば、やはり夫くんは長期出張に行ったり留学に行っているのでは、ダメなんだ。夫くんは、死んでいなければ、いけない。だって、夫くんが死んでいないのに、私が夫くん以外の人を求めることは、ありえないから。こんなに大好きなのに、その他の人のことを好きになれるわけがないから。それは倫理的な意味ではなくて、単純に、あり得ないことなのだ。

そう思うと、やっぱりいくら苦しくても、道のりが長くても、私は夫くんが死んだということを、理解する他ないのではないだろうか。受け入れなくても良いし、実感もしなくても良いかもしれないけど、もっとそのことを理解しなければいけない。諦めがつかなければいけない。そうしないと、また誰かをということには、ならない。

それが今できるかと言うと、まだ全然そんな状態にない。

毎日、夫くんを想って、泣いている。毎日、心が痛い。毎日、恋しくて恋しくて、気持ちがつぶれてしまいそう。夫くんに出会って、こんなにも私を魅了する人が地球上にいるのかと、そう感動した相手だったんだもんね。100点なんてもんじゃない、そういう期待値とか超えてるんだよね。まるで宇宙人と気が合っちゃって感動する人間みたいなさ。なんか褒めてるのか微妙な表現なんだけど笑 それくらい、夫くんは、ぶっとんでぶっちぎりの人だった。天からの贈り物じゃない。宇宙からの贈り物なんだよね。この恋から、次に進むことなんて、あるのだろうか・・・。ま、こう思ってるうちは、ないわな。