優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

自分を責めることも悪いことじゃない

夫が体調を崩してから、そして今回のように亡くなってから、私は両親から「あなたは十分頑張った」と何度も言ってもらいました。でも、私は本気で夫によくなって欲しい、幸せになってほしい、2人でやり直したいと思っていたから、あの時こうしていれば、自分がもっとこうだったらと後悔がたくさんある。この後悔に向き合うことも、今の私には必要なことだ。

 

夫の症状や思考パターンをしっかり理解したくて、私はよく夫との会話を録音してた。

亡くなってから、その会話を聞き直してる。あんなに難癖つけて攻撃ばかりされていたと思っていた私も、録音を聞き直すと、自分の発言のひどさに息苦しくなる。確かにわたしは理不尽な会話で怒りをぶつけられて、7割くらいの時間はよく我慢していた。でも、一度スイッチが入ると、急所を狙った発言を夫に畳みかけて、夫の人間性を否定してた。

 

特に亡くなる前の1年間、私は夫の行動に問題意識を持つ近所の人々と、行動に自覚がなく必死に弁解する夫の間で、いつも板挟みになっていた。録音の中で、「問題なんてなにも起こっていない」と言い切る夫に、「開き直るな!」と私は喚いていた。「もう、そろそろ、仕事の時間でしょ?仕事すれば?」と話題を変える夫に、「働いてもいない奴に言われたくない!私に指図するな!そもそも働いてない自分のそのどうしようもないダメさ加減認めろ!」とトドメを指していた。その言葉で夫は言い返す気力を失ったように、「普通のこと言っただけじゃん・・・」と消え入る声で答えていた。救いは、この日の日記で夜に2人で缶ビールやお菓子を買い込み、一緒に食べたと記録していたこと。一本飲んでから、夫はもう一本買うと言って私を散歩に誘ってくれた。歩きながら、夫は放浪カモメはどこまでもを歌ってた。

 

その時に私の言葉がどれだけ直接的に夫に刺さってしまったかはわからない。でも、こういう私の言葉の一つ一つが、彼の中で自分を責める根深い声となって攻撃し続けたであろうことは想像に難くない。亡くなる前の最後の4ヶ月くらいは、私もこういう発言を自覚的に抑えるよう相当意識していた。でも、どうしても夫の言葉にもならない思いを察する計らいはできなかったように思う。「わたしがこんなに悲しんでも、もうどうでもいいの?」そんな質問にも決まって冷たく答える夫に、そもそもそういう質問を浴びせないということができなかった。あの誰よりも優しくて、誰よりも私を大切に想ってくれる夫が、私をどうでもいいと思っていたわけがないのに。夫が病の中にあると知りながら、夫としての言葉を私は甘えて求め、得られない時に一人傷ついたと怒っていた。