優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

理解者になれなかった

夫が亡くなったことと同じくらい悲しいのは、私が夫の理解者になれなかったこと。それどころか、生きる希望を持っていた夫が死に向かう状況を生み出してしまったこと。夫を死なせてしまったこと。

いつだって夫の理解者でありたかった私と、同じように私の理解者でありたかったであろう夫。人と人が信じ合う、その価値とか、意味とか、素晴らしさは、きっと夫の方が私よりよくわかっていたと思う。私が多方面に愛想を振りまいて浅い関係性を築くのに対して、夫は少数の、この人はと思う人にだけ、心を開いた。どちらが正しいとか、どちらが良いということはないのだけど、信頼関係の希少性は、夫の方がよく実感していたと思う。

会社で部署を異動する際の色紙などで、私はよく上司らから「人の気持ちをよく考えるみんみんさん」と書かれることがあった。私はこれまで、職場にしても、交友関係にしても、周囲の人がどう感じるか、よく考える方だと思っていた。でも、夫が亡くなって、一番自分にできなかったと思うのは、夫の気持ちをよく考えるということだ。考える以前に、理解しようとしていなかった。だから理解できていなかった。

今だって、もっと理解したくて、聞きたいことがいくらでもある。でもこんなに理解できていないのは、夫のせいではなくて、私がもう何年も、理解しようとしなかったからだと思う。しかも、理解しようと思うことすら傲慢なのかもしれない。理解しえないことだとしても、教えてほしいという姿勢を持てていなかった。ぽろぽろとこぼれる夫の言葉を待つことなく、私は状況から推察してフォローの言葉や解決策を雄弁に提案していたのではないか。「こういうことなんじゃないか」と言い換えたりしていたのではないか。夫はそんな私の発言を聞きながら、まったく別次元でベラベラと偉そうに喋る私に、無力感を感じたのではないか。

夫が亡くなったことはもちろん、一番悲しい。そのことだけでも、絶望するに足る。でも、夫と私の間のあらゆるすれ違いや、思い込みを解けないまま、夫が心理的に苦しんだまま亡くなった、そのことを想像するときも、とても悲しい。死因に「せめて」なんてことはなくて、どんな死因だって亡くなった本人にも、遺族にも、無念だと思う。でも、どうしても考えてしまう。せめて、夫と私の間の愛が固く結ばれたまま亡くなっていたら、どんなによかっただろうと。夫が亡くなるときに、私に愛されているという安心感や幸福感を感じてくれていたら、私だって救われただろうと。夫が亡くなったとき、それすらも感じられなくなっていたのかと考えだすと、とても苦しい。

一方で、夫と私の関係性なので、きっと言葉で伝え合う以上に、お互いの真意を理解していたかもしれないと思えることもある。夫にしてみたら、私が夫と暮らすための新居を選んだことや、夫の回復を待っていることくらい、わかっていただろう。でも、そう考えても、私が救われるわけでも実はなかった。そんなことを全てわかった上でも尚、夫が生きていけないと感じたとしたら、それは夫が自分自身を責めて亡くなったということになってしまう。どんなに私に期待されたって、どんなに待たれたって、これまでどれだけ頑張ってもこの苦境から抜け出すことができなかった夫にとって、私たちが寄ってたかって追い詰めたことで、死をもってしかこの苦しみを解決できないと確信させてしまったのかもしれない。その時、夫は誰のことも恨んでいなくて、ただ背負ってしまったんだと思う。

仮にそうだったとしたら、やはり後悔は最初に戻る。夫が誰かに理解されているという安心感を、私が与えられなかった。一番与えるべき配偶者という存在にいながら、そう感じさせてあげられなかった。

自分の苦しみや苦境を誰かに理解してもらえると思うだけで、夫のこの圧倒的孤独は緩和されただろう。一人で背負って、ここで断絶させることで全てを解決するという方法が、選択肢からなくなっただろう。

その理解者に、私は何年かけても、何度訴えられても、全然なれなかった。