優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

ふわふわとした非現実的な感覚

夫が亡くなってからずっと一人になる時間ってなかった。

家族がずっと一人にならないよう、気を使ってくれていたから。

今、はじめて一人になった。

 

一昨日から涙が止まって、悲しい気持ちも止まった。驚くほど淡々とした自分。

その理由を探してる。

夫の存在そのものが私の中で幻だったみたいに思える。

本当にいた人なのに、確かに存在したのに、夫とツーショットで映る自分さえ、自分自身と思えない。家族に囲まれてるから悲しみが麻痺してるのかなって思ってたけど、一人になっても、麻痺したままみたい。

 

今は変に自分の気持ちをほじくりだす必要もないのかな。悲しくないわけがない。私が夫を愛していないわけがない。私は夫のことがものすごく大切だったけど、依存はしていなかった。だから、私がもろとも崩れるようなことは起こっていないのかもしれない。それでいいし、愛情の深さをそれで私は測らなくていい。

 

過去2年間、元の夫の人柄が感じられない時間が多くて、日々泣いて過ごしてきた。どうにも元に戻れない2人の運命を呪いながら、不安の波に溺れそうになりながら、そんな時にお互いしか攻撃しあう対象がおらず、深く傷付けあい、それでも挫けずにやってきた。そんな時期を過ごして、もう、涙も悲しい気持ちも、私から出尽くしてしまったのかな。

 

2年間の中でも、半年間は夫は一時的に回復して、もとの夫の様子を取り戻した時期があった。あの期間に、さらに引き揚げてあげられていたら。夫の大切な人をもっと巻き込めていたら。夫の心に寄り添える医療者を探し出せていたら。あの時に、岐路があって、夫は再発の岐路に進んでしまい、そこから耐えがたい日々に突入した。こころの苦しみは人間関係で救えるものだと思う。人間関係ほど難しいものはないのだけど。

 

私が思っていた自分の中での夫の存在の巨大さと、今こうして亡くなられて受けた衝撃の差。これが今自分にとって不思議みたい。もっともっと衝撃があるはずなのに、悲しいほどに落ち着いているのは、将来に希望を持てていなかったからかもしれない。

 

夫が亡くなる前日まで、夫に元気になってもらって、また絶対に幸せになると周りに宣言して自分を奮い立たせていたけど、現実問題、これからどうしようという物凄く大きな苦悩を2人で抱えていた。そこは根拠もなく明るく前向きになるしかないものだった。

 

だから、夫がこうして亡くなって、私は一つのものすごく大きな戦いが不意に終わり、脱力した状態なのかもしれない。終わらせない選択肢があれば、何をしてでも終わらせなかった。あんな極限の悲しみと苦しみに大切な夫を追いやって、命を放棄させることなんて、絶対にさせたくなかった。それは、私自身が命を投げ打ってでも、止めたことかもしれない。

 

でも、それが起こってしまった今、私の人生はまた至極平凡なものに戻った。夫から離れた場所で、ボーッと過ごすことなんて、少なくとも過去1年はなかった。その環境を享受する自分に、違和感も嫌悪感も罪悪感も持つ。自分がバラバラとしたような感覚がある。