優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

夫を亡くした自分の気持ち

自分の気持ちがわからない。

 

夫との交際はずっと順風満帆で、幸せな気持ちに浸る日々だった。夫はおそらく影で自我の苦しみを持っていたけど、表向きは結婚してからも2人揃って日々の生活を楽しんでいた。

 

平日は夫が料理担当。和食が好きな健康志向の私のために、小料理屋みたいな美味しい惣菜をいくつも作ってお皿に盛ってだしてくれた。炊きたてのご飯と、アツアツのお味噌汁を添えて。金曜は花金と呼んで2人で居酒屋に通った。学生時代は貧乏学生で節約しまくっていたけど、結婚してからはたまに羽振りよくする外食が楽しかった。賑やかな街に住んでいたので、家の近くにいくつも美味しい居酒屋があった。中でも、丁寧に焼かれた焼き鳥が自慢の店に足繁く通った。香ばしい焼き鳥と、サッポロビールの赤星を飲みながら、2人でああでもないこうでもないと語り合った。週末の朝は、お気に入りのパンやさんのパンと、私のお手製の無添加スープで野菜をたっぷり取って、夫が淹れてくれた美味しいコーヒー越しに見つめあって笑った。もしあの時期に夫が亡くなっていたら、恐らく今頃は毎晩絶叫するほどの苦しみに襲われただろう。

 

過去2年間のうちに、そんな平凡な日々は夢のまた夢のような世界になっていた。恒常的な激しい怒りと猜疑心に包まれた夫は、自分が尋常な状態にないことは気づいていたが、それでも抑えられない感情に翻弄されていた。いつも何よりも大切に思ってくれていた私にそれをぶつけてしまう自分に、口には出さずとも苦悩していたのではないかと思う。

 

亡くなってすぐ、私の頭に最初に浮かんだ考えは、「あの怒れる夫が死んでしまった」ということだった。

 

翌日、これまでの交際でとりためた写真を見返した。うっとりするほど優しく微笑む夫を見ながら思ったことは「とてつもなく大切な人生の宝物を失ってしまった」ということだ。

 

今日はまた、色々な夫像が私の頭を巡っている。

 

きっと、全てが夫だったのだと思う。

 

過去2年間、いつも夫に誠実に向き合いたいと思い、病の中でも目の前の人は夫であると信じて接してきた。病理によって発した言葉と捉えることは相手を馬鹿にしている。夫の言葉や行動にはれっきとした意味がある。そう考えて、一言一言に真摯に向き合うことを自分の目標としてきた。人間ができてないので、半分以上はできていなかったと思うけど。

 

今、「それで亡くなった夫はどういう人だったんだっけ?」と思ってしまうのは、過去2年間、自分が誠実に対話してきた勲章だと考えよう。

 

今日のように少し冷静すぎる気持ちになっているのは、なぜだろう。

本当はもう磨耗しすぎていてたのだろうか?過去2年間の疲れがこのタイミングでどっと出て、悲しさより呆然としているのだろうか。

 

それとも、本来の夫の愛しすぎる存在を認識するとあまりに苦しいから、気づかないようにして、事実から目を背けているのか。

 

自分の脳とこころがよくわからない。これは、どんな反応なの?