夫が亡くなったのは密室での出来事だったため、そもそもどんな表情で、どれだけの意図をもってこの結果に至ったのかはわかっていません。
ただ、極限のプレッシャーの中で、本人の意志とは関係なく、他者の手によってそれに追いやられてしまったことは疑いようがありません。
人が自らの命を終わらせる行為について、私は関心を持ったことがありませんでした。
そもそも、心の病についても、関心を持ったことはありませんでした。
夫は文学が大好きだったので、人間の生と死について考えることは私より多かったと思います。
事故の後、私は夫の死について、無意識のうちに理屈で納得しようと試みていました。
夫が亡くなったことで、夫は理想と現実の苦しみから解放され、悪夢のような病とも決別できたと考えようとしました。夫はこのまま生きていても、おそらく数えきれないほどの絶望に直面しただろう。優しくて誠実で誰よりも繊細な夫は、同時に大きすぎる野望とプライドも持っていて、これを全て維持したまま回復していく道はいばらの道に思えたからです。夫は死んで楽になった、死ぬ運命だったのだ。死んだことは本人の意志だった。これしかなかった。こんな言葉を亡くなった翌日くらいは考えていました。
でも、その後自死についてネットで調べるうちに、「トンネル・ビジョン」について知ります。精神的に追い詰められた人が、自分には死以外の選択肢がないような錯覚を起こしてしまうというもの。これは、私が夫の側を離れて、人集めをしていた3週間の内に夫に起こってしまったことではないか。あんなに一人にしないよう、隣にいつもいると伝えていたのに、色々なことが重なって一人にさせてしまった3週間。
人が命を投げ打つのに必要なエネルギーはそんなに長くもたない。そのエネルギーが高まったときに、誰かと話すだけで、死のエネルギーは鎮静化されるそう。また、未遂に終わった方々のブログでは、生きることに前向きになっている方が数多くいる。
夫にも、当然この道があっただろう。
そうなると、夫は無駄死にということか。
今は、心からそう思う。まったく救われないけれど、夫は死ぬ必要はなかった。
夫は無駄死にであって、小説のようなあっけない死だ。
そこに意味はないし、夫がそんな運命だった、これでよかったなんて失礼な考えは捨て去ることにした。夫は生きて私と幸せになるべきだった!本当に。