優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

他人の不幸を願うという不健全な心理

夫が亡くなって、もう2週間経つ。

2週間前の夫の死の直前までは、どうやったら夫の力になれるだろう、どうやったら周囲をもっと巻き込めるだろう、私はどこまで頑張れるのだろう、未来の2人はどうなるのだろう、そんなことを考えていた。今の気持ちと通じる苦しさみたいなものは常にあって、過去の幸せな時間を思い出して涙しながら、なんとか日々目の前の難題に立ち向かおうとしていた。夫の闘病を通じて、私は10kg体重が落ちていた。これまでいつも健康優良児としてハリツヤ満点の顔をしていた私が、どことなく儚く、幸薄な女性の顔になっていた。そっちの方が妙にモテたのは、男性の「守りたい」心理、あるいは弱った獲物を狙う本能に訴える何かがあるのかもしれない。

今は難題そのものが忽然と私の人生から消えてしまって、解決できないままゲームオーバーになってしまった気分。これまであらゆる人から向けられた屈辱的な言葉や態度。なんという小さな人間たちだろうと思っていた彼らに、完全敗北宣言。私たち2人がこれまでの過程にいくら誇りを持ったって、何をどう虚勢を張ろうと、夫の命が亡くなった今、私も、夫も、もう彼らを見返すことはできない。

正直、心の中でどこにもやり場のない怒りを抱えていて、これまで夫の闘病期間中に関わった心ない人々、あるいはこちらの不幸を見て自分の幸せを噛みしめた人々をひどく呪っている。私の生き霊は、彼らの家族にどうか大きな不幸が起こりますようにと願っている。こんなこと、不謹慎すぎて誰にも言えないけど。自分の中に怒りや恨みを抱えるほど苦しいことはなくて、いつも頭がパンクしそうになる。私は他のいろんな感情は穏やかだけど、怒りの扱いは不器用で、怒りを司る脳の機能が弱いのかなとすら感じる。

恨んだってしょうがないし、自分が向こう側の人間だったことだって、きっといくらでもいくらでもある。日中は誰かの苦労話に同情しながら、夜は飲み会で大口あけてお酒を飲み、人生最高と笑っていたことだってある。苦労話の続編を後日職場のトイレで聞いて、「えー、大変だねー」とゴシップ感覚で話を消費したことだってきっとある。とても苦しんでる人に手を差し伸べて、この余裕ある自分、苦しむ人に寄り添う自分、素敵、と陶酔したことだってある。ちょっと感動的で立派な人みたいな言葉が自分の口からでて、自分良いこと言ったな、なんて思ったことだってある。そういうの全部クソくらえと思う。

もう全部全部クソくらえ。

わたしが譲らないことがあるとしたら、それは夫と私が幸せだったということ。だから私と夫を見て、自分の生活がいかに幸せかと噛みしめる人が周囲にいれば、それは幻だと全力で伝えたい。お前は幸せでもなんでもないと。

そんな低俗な劣等感に苛まれてる今日。