優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

経験から生まれた割り切り

夫の闘病中くらいから、私の中で考えが変わったことがあった。

それは、誰かのために、特に家族のために、全力で尽くすということを、諦めようということ。

夫には、100%尽くす。夫と私の信頼関係から、それは間違いない。

でも、夫以外の人には、もっと割り切ってもいいのかもしれないという、これまで全力で突っ走ってきた私にとって、悲しい自覚のようなものが芽生えた。

もちろん、私だって自分の生活があるので、これまでも全てを犠牲にして他者のために生きてきたわけじゃない。でも、共感力みたいなものが高いのか、誰かが困っていると感じると、自分にできることを色々とせねばならないという、使命感のようなものが湧くタイプだった。だから、仕事で忙しくても家族が困っていれば連絡を取るし、必要とするサービスを探したり、物を購入して送ったり、手伝いに駆けつけたりした。一言で言えば、世話焼きと言えるのかもしれないけど、人が困っているときに、音沙汰なく過ごすような冷たいことは、したくなかった。だから、例えば遠い親戚が体調を崩した時も、できるだけ足繁く通った。でも、その時も思った。なぜ、私以外の家族は、彼女の元に自発的に通わないのだろう?と。なぜ私が5やるのに対して、4ではなく、3でもなく、2くらいなのだろう?と。

夫の闘病中も、そうだった。2年間も死闘のような日々を続ける私たちに、しつこく連絡を取って様子を伺ってくれる人はいなかった。次はどうしたらいいだろうと日夜一緒に悩んでくれる人はいなかった。きっと、話を聞いてるだけで大変すぎて、聞いていることに疲れてしまったのだと思う。でも、それで思った。

家族だからって、全力を尽くしあう関係ではないのだ、と。

尽くせるときは尽くすけど、自分の手に負えないとき、人はすっと引くのだと。

私は、夫と私の経験から、無関心が夫を死に至らせたと思っている。だから、人に対しておせっかいであること、関心をもつこと、これが社会にとっていかに重要であるかを訴えたい。

でも、一方で私はこんな正反対のことも考えている。私はこれまでのように、自分の家族におせっかいに関心を持つ必要はないかもしれない、と。

それは、夫の死という一つの経験を経て、自分のとき、自分がとても困ったときに、そうしてもらえなかった、という結果がでてしまったからかもしれない。立派な宗教の信者でもないので、やはり相手からもらえなかったものを与え続けるということができないのだと思う。

私の人生は、関心は、マンパワーは、本来、夫と築くはずであった核家族に、もっと集中していくべきだったとも思う。そんなことを考えても、もう夫はいないし、家族を築くどころか、私は1人になってしまったので、戯言なのだけど。

もう少し私は、自分の家族から自由になってもいいのかもしれない。彼らは彼らの人生があるし、各々の配偶者がいるのだから。決して、こういう考えの持ち主になりたかったわけじゃないけど、今後覆すことも、したくないと思っている。