優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

問題の構造2

(前回からの続きの話)

まだ、書き足りない。まだこのことについて、考えの途上にあるなあと思う。

秋葉原の事件の弟さんは、生育環境の悪影響を感じながらも、自分が亡くなる前には母親のことを心配していたという。自分が死んだら、母親がショックを受けるのではないか。今より体調を崩すのではないか。

三者の私からすれば、その労い、その配慮、その優しさは、一体どうしたら生まれるのだろうかと思う。一瞬、共感しがたく、理解しがたく、その純粋な愛情が苦しくもある。

でも、自分に置き換えたら、確かに親に対してはそう思ってしまうのかもしれない。

仮に私がこの弟さんと同じ立場に置かれたら、自分がこの世からいなくなってしまうかもしれないと想像した時、一番に親の気持ちを案ずるだろう。同時に、これまでどうやっても自己犠牲を払ってくれず、絶対に振り向いてくれなかったその人たちに対して、死を持ってメッセージを発するという考えもどこかにあると思う。「親はショックを受けるのでは、体調を崩すのでは」と思う一方で、どうかショックを受けてほしい、どうか体調を崩すほどに愛情を示してほしいと思う。それは最後の愛情確認であり、最後まで満たされなかった子供の期待でもあるのかもしれない。残酷なことに、こんな子供の思いは、そういった親に届くことは、私はないと思う。届くような親ならば、とっくのとうに届いている。これまで自己犠牲を払わなかった親は、どんな状況に陥ったところで、自分を痛めつけるような情報はミュートしてしまう。そして、必ず優しさを、逃げ道を示してくれた優しい子供の言葉を思い出して「あの子の分まで生きなければ」と自分を励ますに違いない。少なくとも、夫の親は、病院の霊安室で、今さっき亡くなった夫の亡骸に手を合わせて、そう言っていた。「お父さんとお母さんは、これからは喧嘩せず、長生きするね」と。

夫の死を経て、あの人たちは、安堵したのだろうか。これまであれだけ生きる希望を託した子供が、体調を崩し手に負えなくなり、彼らの人生設計は大きく崩れる最中にあったと思う。夫の病状を私から聞いても、彼らは不気味なほどに関心を示さなかった。「なるべく日々考えないようにしている」と言っていた。「お酒を飲んで、テレビを見て、忘れることに努めて、なんとか自分の体調を維持しているの」と瞳孔の開いた目で言っていた。まるでその人の健康が何より大切だと、私も当然そう理解して、頷くだろうと言う表情で。私は「ハァ、でも…」と言いながら、圧倒的な話の通じなさにエネルギーを吸い取られる思いだった。

亡くなってから、夫の大きな骨壺を、実家で抱きしめているという。大きさも、重たさも、夫が赤ちゃんに戻ったみたいと思うんだ、と微笑んでいた。「お母さん大好き」と言って追いかける息子を、いつも思い浮かべると言う。あれだけ夫を独占したいと心に秘めていた人は、夫が自分の元に帰ってきたと、今、喜んでいるのだろうか。

遺骨になった夫は、確かにもう反発しない。残された人の妄想の通りの言葉を心の中で投げかけてくれるだろう。でも、やるせないのは、優しい夫なので、きっと実際にかける言葉だって、優しいだろうと思う。きっと、親を責めない。追い詰めない。いつだって親に逃げ道を残してやるだろう。

でも、その関係性の中で、私とは、一体、なんだったのだろうか。

これが、本論。私とは、一体、なんだったのだろうか。