優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

現実に引き戻されたら更なる苦しみが待ってる

先週は忌引きで休んで、夫が亡くなってからの一週間を自分の実家のゆりかごの中で過ごした。ただただ私が必要とする環境を整えてもらって、全ての時間を私に充ててもらって、360度守ってもらった。

 

来週から仕事にまた行かないといけない。

毎日何百と届くメールに、平然と「お世話になっております」から始まるメールを打って、電話をして、心底どうでもいい締め切りに追われて、仕事をしなければならない。

「先週は不在にしておりご迷惑をおかけしました」と方々に頭を下げるところからはじまるのか。「もうこの仕事は心底どうでもよくなったので、全てが炎上してなくなればいいと思って過ごしておりました」と付け加えていいかな?

 

仕事が苦しい、嫌だ、苦痛、なんて思ったことはこれまでなかった。

夫は、仕事が苦しくて苦しくて、死んでしまいたいと思うほど苦しかったそうだ。

私にはその気持ちを尊重することはできても、理解することはできなかった。でも、夫の死をきっかけに、その気持ちすらわかるようになった。本当に、世の中はどうでもいい義務と見栄と終わらないランニングマシーンでできているね。夫が純粋に追い求めた生の意味や価値は、この世の中のどこにあったのだろうか?本当にあったものは、私との愛だけではなかったのか。それでなぜ夫は満足してくれなかったのだろうか。したかっただろうに、できなかったのだろうか。

 

今週出社したら、きっと、私の様子に気付き、詮索する人、噂する人、言ってほしくないところで口に出してしまう人、本当に幸せな家庭生活を送りながら同情してくる人、家に帰ってほくほくと自分の幸せを噛み締める人、いろんな人がでてきて、私はこれからものすごい苦悶の中を生きるんだろうな。

 

元々人に目をつけられたり、ひがまれたりしやすくて、お局さんみたいな人にネチネチ粘着されても、スルーして仕事をしてきた。私は私の道を行くんだから、人の様子を見てあれこれ考える人に時間なんて奪われたくないと思っていた。夫だって、いつでもそんな私の味方だった。きっと、私をこれまでぎゃふんと言わせたいと思ってきた奴らは、ようやくこいつもつぶせたと思ってほくそ笑むだろう。それで私に優しく接して、自分の寛大さにご満悦の表情を浮かべるんだろう。

 

そんな奴らに絶対に負けない。夫も、私も、ずっとずっと幸せだったんだ。

可哀想な人たちなんて絶対に思われたくないし、ましてや私が夫と結婚したことを不憫がられたり、夫に苦労させられた哀れな人と酒の肴にされるかと思うと、はらわたが煮えくりかえる。あるいは、あの気が強い女の夫だから心を病んだのだろうとか、死まで追いやる女だなんて恐ろしい、なんて思われたりして。自分の頭をよぎる自己批判が、一番嫌な奴からの声のように私の頭の中で巡る。これも、まさに夫が体験していた幻覚と苦痛だな。自分の一番の急所を突く批判を自分で思いつき、それを他者の声として自分に向ける。本当に、夫が経験していたことそのものを今私は経験している。

でも、これって生まれて初めて経験することではない。なのに、この共通項に今この瞬間にしか気付けなかった。もっともっと夫に寄り添えることがあった、そう気付けることが今になって山ほどある。自分がなんと凝り固まって、夫を異物扱いしていたか。夫は心を病んではいたかもしれないけど、狂っていたのではない。人としてごく自然な拒絶反応を人生と社会に対して発していたのだと思う。そこに「一人じゃないよ」と寄り添う力のなんと私に足りなかったことか。

 

今週から、私は今まで通り、胸を張って、大腕を振って街を歩く。

意地でも下を向いてとぼとぼなんて歩かない。「あの人の頭の中どうなってるのかしら?」と思われるくらい、今まで通り暮らしてやる。それが自分と夫の尊厳を守ることだと思う。

 

出会って2回目のデートで、私が手足をブンブン大きく振って歩く姿を夫が面白がったのを思い出す。私が歩く姿は、「ぷらーん、ぷらーん」と音がするように、のびのびとしていて、それでいてずんずん前に進む。夫は、すったこらすったこら歩くけど、背が高くて足が長いので、進む速度は早い。

 

ぷらーん、ぷらーん

すったこら、すったこら

ぷらーん、ぷらーん

すったこら、すったこら

 

この2人より素敵なカップルなんていないんだから。

2人の力を合わせたら、どこの誰よりも強くて幸せではじける愛があったんだから。

誰にも私と夫の批判はさせないし、した人には天罰が500回くらい下るようにするから。

天国の夫に、雷準備させとく!夫くん、よろしく頼んだよ。

 

 

死別直後の過ごし方

夫が亡くなった日、病院の霊安室には夫、私、夫の両親と私の両親がいた。

 

警察に夫が検死のために引き取られて、今晩私はどこに帰るかみんなに聞かれた。

 

一人でアパートに帰ったら、尋常ではない苦しみに襲われることが目に見えていたので、移動時間は気になったものの、私は両親と実家に帰り、また翌朝早くに警察に向かうことにした。

 

大切な人が突然亡くなったあと、どこでどう過ごすかは心の癒され方に大きく影響すると思う。

 

私は子どもがいないし、実家には両親と90歳を超えた祖母がいて、三人がかりで私を支えてくれた。私から時にぽつぽつ、時に止まらずに溢れてくる夫の記憶と死の後悔に、じっくり耳を傾けてくれた。

 

私は祖母の部屋に布団を敷かせてもらって隣で寝た。最近すっかり体力が衰えていた祖母も、元気印の孫がぺしゃんこになっているのを見て奮い立ち、素朴な冗談をいくつも言ったり、いつまでも布団に寝ている私のほっぺを突いてきたりして、気にかけてくれた。

 

私はたくさん声に出して人に話して回復するタイプなので、ここで他にケアしなければならない子どもがいたら、自分の声を出せなくなって、苦しかったかもしれない。でも、それならそうで、この子のためにしっかりせねば!と力がでるのかな。

 

亡くなった翌朝だったかには、朝起きたらいても立ってもいられなくなり、ダイニングテーブルの周りを30分以上、ただぐるぐると歩き回った。夫が苦しかったとき、朝から晩まで外を延々と歩いていたことを思い出す。

 

最初の数晩は、自分の部屋にいてノートに殴り書きしてるうちに感情が止まらなくなって、遺影に向かって大声をあげて泣いた。すると私の両親が部屋に入ってきて、両側から背中をさすってくれた。あれをアパートで一人でやっていたら、気持ちがそのままつぶれたのではないかと思う。

 

このいても立ってもいられない苦しみは、私にとっては最初の3日くらいだったように思う。この後また違う形で何度もぶり返すと思うけど、経験したことのない感情だった。

 

その時、夫の苦しみがわかったと思えた瞬間があった。はっと気づいた瞬間を、本当に文章で記録しておけばよかった。これまでわかりたくてもわかりたくても同じステージに立てなかった自分が、夫を失って初めて、通じ合う感覚を覚えた。苦しみと悲しみに自分が圧倒されて、巨大な時限風船が体の中で破裂直前のような、全身で風船を受けているために、他のことに考えを回す余裕が指先くらいしかないような。この羽交い締めのような状態で、私は夫に色々な要求や交換条件を出していたのか。

 

あの時この感覚を共有して、少しでも夫に寄り添えていたら。悔しくて悲しい気持ちは尽きないな。

 

 

 

夫が亡くなった原因

これまでにこのブログで何度か触れている通り、夫が亡くなったのは、本人一人の意志ではなく、周囲からの暴力性を備えた圧力に恐怖・諦め・罪悪感を感じたためだと思います。

そして、その「周囲からの暴力性を備えた圧力」を担う一人に、わたしもいました。

 

当然、夫にそこで命を投げ打つ行為なんてしてほしくなかったし、そんなことにつながるとは思ってもみませんでした。それくらい、私たちは高揚し、一方でドアの反対側の夫はこちらの言動に恐怖を感じていたのだと思います。

 

夫は、この外圧がなければ、死ぬ予定はなかったと思います。

でも、突然の押しかけと乱暴な介入に怯え切って命を絶ちました。

夫は、殺されてしまったと表現することもできます。

さらには、この外圧を担っていた私は、夫を殺してしまったと言うこともできます。

「私は夫を殺しました」そう言うことすらあながち間違っていないと思います。

正確には、「私は意図せず夫を殺しました」あたりが適当かもしれません。

 

でも、夫の死に至るストーリーをこの型にはめていくこと、そして自分の中で背負っていくことは、あまりに重たいものです。真実がどうであったのか、とても気になっていることだけど、まだこれを語り口として受け入れられるか、自分でもわかりません。

 

夫は、どうして欲しいと思っているだろう。

亡くなった直後は、過去2年間について、ようやく夫も私が全力で支えようとしていたことを理解してくれるだろう、と思っていた。でも、亡くなってから時間が経つにつれて、夫がとても怒っているのではないかと思う瞬間もあった。よくもこんな事態になるほどの強硬姿勢で襲いかかってきたな、と恨まれているのではないか。

 

今の私には、夫の死の原因を背負うだけの度量がないけど、夫はどう考えてるのか、夢にでてきて教えてほしいな。くれぐれも、私の潜在意識から空想した夢じゃなくて、夫が自分から出演してくれますように。

 

 

亡くなってから火葬までの時間

夫が亡くなって、警察で検死があって、家族葬を終えるまで数日かかった。

 

亡くなった日には、「明日にもお葬式をしたい、夫の全てから離れてしまいたい」となぜか思っていた。あまりに苦しいことで、自分が現実から逃げようとしていたように感じる。珍しい。

 

でも、翌日から火葬までの数日は、ただただ夫の形がなくなることが嫌で、毎日棺の中の夫に抱きつき、キスをしていた。夫の姿・形の全てが愛おしくて、なんども顔を撫でて、愛して、自分の指に感触を残そうとした。夫に抱きつくと、夫の胸は暖かくわたしを包んでくれた。ドライアイスの冷たさなんてものともしない。夫はあんなに優しくて脆い人なのに、なんて包容力のある肩と胸だったんだろう。この胸の中で一晩泣き明かしたい、そんなことも思った。

夫の足から膝のあたりに手を伸ばすと、夫のすっと長くまっすぐな足を感じられた。「ああ、これは夫だ」。私は自分の上半身を夫の足の上に重ねて噛み締めた。頭から爪先まで、夫の全てを覚えていたい!とわたしは何度も何度も夫の足にわたしの身を重ねた。

 

葬儀屋の方は、とても良い方で、家族葬に関するわたしの希望を全て叶えてくれた。

わたしと夫の思い出の地を車で回ってくれて、数日の間に実現したことと思えなかった。

お花も、おどろおどろしい色じゃなくて、夫が好きなポップで可愛いお花にしたいと伝えると、本当に可愛らしいお花をたくさん準備してくれた。ピンク、白、サーモンオレンジ、黄色。それに家の庭のハーブを切って添えて、最後は眠り姫のように飾ってあげた。飾った後は抱きつけないかもと思ったけど、一生に一回のことなので、もう一回お花の上から抱きついた。

 

「音楽も何か準備してくださいね」 淡々と葬儀屋さんに言われて、初日はすぐにでも葬儀を終わらせたかった私は「はあ・・・」と思ったけど、家に帰って夫のCDを漁ると、夫が大好きなオザケンがたくさん出てきた。夫と私は音楽の趣味が全然違う。性格も違うからね。オザケンを初めて葬儀で爆音でかけたら、すごく夫がにこにこ聴いてる姿が思い浮かぶようで、ブルースの曲は夫の遺影を両手で持って、一緒に体を揺らして踊った。夫にもらったスカートを揺らしながら。うっとりした気持ちの中で、悲しくて悲しくて、2人の結末がこれかと涙が溢れた。

 

家族葬だから、服装も自由にさせてもらった。冠婚葬祭に関心のない夫だったから、きっと私が黒づくめで現れるより、可愛いお洋服をきて欲しいというだろうと思って、上下ともに夫にプレゼントしてもらった服にした。夫がくれる服は、女の子らしくて、でもどこか聡明で、上品で、やさしくふんわりしたものばかり。そういう服を選りすぐってプレゼントしてくれる夫が大好きだったな。わたしが着てみると、いつもドンピシャに似合いすぎて、デパートの専任コンシェルジュになれそうな目利きだった!

 

記念写真も何枚も何枚も撮った。過去1年間、夫は写真を一緒に撮らせてくれるような精神状態になかったから、こんなに抱きついてまとわりついて写真を撮らせてくれることが新鮮ですらあった。交際してた時から、ツーショットばかり何万枚と撮っていた二人に、最後のツーショットになった。私は夫の近影で穏やかな表情のものを持っていなかったから、穏やかに微笑んで眠っている美しい夫の顔に、ああ、わたしが惚れこんで大好きな顔だ、と何度も思った。

 

棺の中の夫は、出会った日に私が一目惚れしたときよりさらに成熟して格好良くなっていた。「夫くんは年齢があがるにつれて益々かっこよくなるタイプだな」って、いつか夫にメールしたことがあったな。

 

毎日、夫の写真を見ては、格好いいなと思っている私は、側から見たら結構不気味かもな。

でもいいの、私は私。もし私が先に死んでたら、夫はきっと焼くことさえ躊躇して、財産はたいてホルマリン漬けにしていたかもしれないし。それくらい、お互いを外面も内面も大絶賛しあってた。おめでたい2人、だよね。

 

 

ブログばかり書いている自分

夫が亡くなってから時間が経つにつれて、夫のあらゆる記憶が自分から消えていってしまう気がして、必死に記憶やその時の思いや感情をかき集めて書き記している。

初日にあんなに手に取るように感じられた夫の心の痛みも、今は間に一枚薄皮を挟んで感じるようなものになっている。もともととても忘れっぽい性格の自分だけど、忘れたくないことは覚えていられるはずなのに。

そのことが恐怖で、大切な宝物が時限付きで消えてしまうような感覚。

夫が亡くなったときに身につけていた服は、普通の感覚なら保管できない状態だけど、私はそれをまだ自分の部屋にすら運びたくない。誰にも気味悪がることを許したくなくて、家の居間に置いたまま、夫がそこにいる権利があると主張するかのように、鎮座させている。

夫の遺品整理は、きっとすごく辛いだろうな。一気に現実になるから。

今は、おかしなことに、また夫が生きてた、なんて復活しても、私自身驚かない気がする。それくらい、自分の中で認めていないし、実感していない。

 

あー、ほんとに、不思議な気持ち。

 

最後の瞬間

最後の瞬間に夫がどんな気持ちで、何が頭をよぎっていたかなんて、誰もわからない。

夫だって、その時はそれが真実だっただろうけど、おそらく30分待てたら、「なんであんなことを思ったんだろう」って思ったんじゃないか。

だから、きっとこうだった、と突き詰めて考えても、何にもなりはしない。

でもね、夫が最後に経験した激烈な感情と、死に向かうエネルギーは、あまりに私が経験したことのないもので、どれほど苦しかっただろうか、悲しかっただろうか、つらかっただろうかと、想像できないなりに想像を続けてしまう。

 

夫が死ぬ前に見た景色を、わたしだけが同じ場所から見た。

いくじなしで泣きべそかきやすい夫が、あんなに恐ろしいことに自分を投じるほどの体験。

大切な人にそんな思いをさせてしまったことが悔やまれて悔やまれて、悔やんでもどうしようもなくて。

 

夫が亡くなった姿を本当に見たのは、私だけだと思ってる。

第一発見者になれて、私は本当によかった。

大切な夫が感じた感情と経験した絶望を少しでも、少しでも、自分の中で再生したい。

夫の人生最後の1分ほどの時間を、わたしは何度も頭の中でリプレイしている。

夫が見たであろう情景を思い浮かべて、感じたものを自分の心の中で起こそうとしている。

とても静かな世界の中で、夫はスッと旅立った。

 

いつも一発ギャグが得意だったわたしは、夫が体調を崩してからもたくさんギャグを見せていた。

アホらしすぎて笑ってくれる夫に、わたしの方が何度も救われた。

夫が命を投げ打とうとした瞬間にも、もしわたしが一発ギャグをやっていたら、突然その場が滑稽になり、クソ真面目にドラマチックになっている自分にも呆れて、きっと座り込んでくれていただろう。

 

夫の死は、一発ギャグで防げたのではないかと思うのは、不謹慎なのかな。

悲しい2人

交際開始から体調を崩すまで、私から見えていた夫は夫のほんの一面だけど、夫もそれ以外の一面を自分でわかってはいなかったように思う。

 

お互いをありのままで好きで、出会えたことに毎日感謝して生きてきた。

結婚して一緒に住み始めてからも、ちょっとした気遣い、優しさ、配慮、愛情、そんなことに日々初恋のようにキュンキュンしながら生活していたように思う。

惚気話を聞いてくれる人がいれば、いつまででも惚気ていられるほど、大好きだった。

愛してる、じゃなくて、「大好き!」という感じ。1日の終わりに家に帰ると、二人で思いっきりお互いに飛び込んでハグしあって、この世に生まれてきた喜びを分かち合っていた。こんなに理解しあえて、高めあえて、尊敬して止まない人がこの世の中にいるのかと。それは、今の今でも、そう思う。思い出しても、息苦しくなるくらいに優しく美しい人だった。

 

夫の中で、私はどう映っていたのかな。夫は2年前に心が苦しくなってから、私のことを昔と変わったと常に言っていた。それは、夫の症状からくるものも多分にあると思うけど、きっと私は本当に変わってしまったところがあったのだろう。学生時代から、二人三脚でやってきた。夫はその優しく弱気な性格から、困難に直面すると早々に諦めたり、しゃがみ込んでしまうような場面があった。でも、都度私が全力で発破をかけて、パワー全開で引き上げていたように思う。でも、私のそのパワーもまた、夫からたくさんの勇気をもらったからこそ持てたものだった。

 

わたしが何かに挑戦するか迷っているときや、珍しく弱気になったとき、夫はいつだって優しく包み込むように応援してくれた。「みんみん、頑張った方がいいよお」「絶対やった方がいいって」。そう言って、長い腕を私の背中に回して優しく包んでくれた。強制でもない、押し付けでもない、発破でもない。夫はいつも一番優しい形で私が挑戦する勇気を与えてくれた。あんなこと、わたしは夫にしてあげられていない。今ならかけたい言葉がいくらでもいくらでもある。

 

2年前、夫が夢につまづき、奈落の底に落ちたとき、私は自分の人生、キャリア、全て順風満帆だった。いつしか2人は、学生時代の2匹の子犬ではなくなっていた。私の擦れて傲慢な態度は、きっと夫を悲しませたことだろう。どうすればよかったのかは未だにわからないけれど、気づけば二人の境遇に大きな差が開いていたことは事実だと思う。私は自分の夢に向かって歯を食いしばりながら、隣で夢を諦める夫を責めた。夫は、諦めることほど辛いことはないのに、理解されず、挙げ句の果てに非難されて、どれだけ苦しかったことだろう。その苦しみを言語化することが不得手なところも、2人のすれ違いが大きくなった由縁である。

 

もう少し大人な2人だったら。2人とも、大人になることを恐れて、2人だけの道を開拓していきたい性分だった。その思いは、2人でどんどん強めて行ったように思う。決まったレールじゃない、2人だけの人生!結婚して数年は、その関門をどんどん突破しているようで、船がぐんぐん進んでいった。その間に、2人の間に生まれてしまったすれ違い。そして、最大の関門で共に精神的に追い詰められたときに、初めて子犬ではいられなくなった。30代の大人2人として、初めて相手の嫌な姿、挑戦を止めたり諦める姿を見て、失望して、衝突したのだと思う。出会った時、夫は10代だったのに、気づけば30代になっていた。

 

それでも、この2年を乗り越えて、2人で生まれ変われたら一番よかった。

それぞれの夢を持ってしまうからすれ違ってしまうわけで、わたしは夫と起業したりYoutuberにでもなって、一緒に一つの夢に取り組めないかと思っていた。そうすれば、夫とわたしの間で得意な分担を調整できるし、得られるリターンは2人で享受できる。

 

でも、そんなプランも水の泡になってしまった。

あんなに意義を感じていたわたしのキャリアも、もうなんの意味も持たない。

夫がいない中で生きていく意味さえ見えず、ましてや仕事なんて本当にどうでもよくて笑える。この世の中まるごと爆破装置で吹っ飛ばしたいくらい、何も意味なんてない。

 

夫がいつも口癖のように言ってた言葉だ。

「意味なんてない」

それが今わかった。夫がいなければ、この世はわたしに「意味なんてない」。