優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

人生の救済

最近はある種気持ちが安定している。

安定というのは、人生の過ごし方が定まっているということ。

すなわち、過ごし方としては、仕事しているか、現実逃避しているか、命日までに死のうと思っているか。もうこの三択くらいしかない。

死のうと思う気持ちがどれだけ深刻なものなのか、実は自分でもわからない。絶対的な救いのように見える日もあれば、本当にそんなことできるんだろうか?と思うこともある。でも自分に問いただした結果、死ぬ必要がない、という結論になることはない。やはり生きる意味を見つけられていないのだと思う。

あんなに家族思いで、人に優しく、感情移入の塊だった私だけど、やっぱり私自身が生命力を持っていなければ、周囲への気遣いは私自身に意味を成さない。もう数週間、実家からの連絡も、既読すらつけず、返信ができない。義実家から一周忌に関連した連絡もあったけど、一周忌に会うことがあまりに苦痛のように思えた。この義両親に、今更どんな表情で、どんな態度で会えば良いのか。この自己愛と自己中心的思考を貫徹させた二人に。

私という人物の生きる目的が成り立たない時、最も近しい人への気遣いすら苦痛となる。これは、夫にもあてはまったと思う。夫が自分に対する肯定感とか、人生の幸福感を感じていない中で、ただ私に対する愛情に拠って生きる意味を見出すことは難しかったと思う。だから、夫があんな形亡くなった=私を愛していなかった、と考えることは短絡的かなと思う。彼が彼自身を愛せていなかった、自分が生きる意義を感じられなくなっていた中で、私を愛すためだけに生きて欲しいと願うのは、傲慢であり、間違いだと私は思っている。むしろ、彼に生きて欲しいと私が願うのであれば、彼が生きているうちに、彼が自分を認め、肯定できるようになるために、私自身がもっと力になれれば良かった。そういった方向に私の後悔はある。

きっと遺族の後悔には、それまでの経験を踏まえ色々あると思うけど、私自身はまずは夫の自己救済。これをもっと支援できればよかったのにと思う。実際にはそれを妨げたり、逆行するような冷たい言葉を、幾重にも放ったことに私の悔いがある。

夫が亡くなってからしばらく、同じように死別した方のブログを熱心に読んでいた。何ヶ月目には、こんな心境だったのか。よしよし、同じペースで進んでいるぞ、とか、あれ、ちょっと出遅れたかも、など、随時比べていた。その方の旦那さんは突然死。私の夫の状況とは違う。でもブログ主の考え方が、私とシンクロするように思えた。私自身、神経質なようで(自分に甘いために)楽観的だったし、夫が死んだことはもう取り返しようがないので、私が生きるのであれば、私は将来再婚して、きっと子供を産む。それでもって私は救われると思っていた。

でもそんな比較も、ここ数ヶ月でやめた。その方は、死別から1年未満の今頃、新しいパートナーに出会っていた。出会った理由は、私にもよく理解できるものだったし、私が彼女だったら、きっと同じように惹かれただろうと思った。でも、今の現実の私と比べたら、私は全然その境地に達していなかった。大体、夫は男性100人並べた時に、そのうち95名が標榜するタイプと違って、残り5名くらいの不思議な人だった。きっと、夫を重ね合わせているうちは、世の中に似た人なんて見つけることが難しいくらい、独特な人だった。

それでも、きっと新しいパートナーを見つけて、子供を産めば私は救われる、という発想は私の深層心理に根強くある。つい数週間前、夢を見た。赤ちゃんを産んで、私のお腹に生まれたてほやほやの赤ちゃんが乗せられて、私はとてつもない幸福感を感じていた。その赤ちゃんが誰の子であるとか、その後どんな親子になるといった情報はなかった。ただ、日々感じているこの絶望感が、お腹に乗ったその赤ちゃんによって、溶かされるほどに癒される瞬間を体験した。

きっと私は、私自身と奇跡のように思考がシンクロして、この世で想像できないほどに美しい思考をした夫という人物が亡くなったということで、もう「夫」という存在には期待していないのかもしれない。夫ほどに私を魅了して、一挙一同で私を感動させ、苦しみの果てに至ってもその美しい人間性を感じさせてくれる人は、きっとこの世に存在しない。それに似た人、彷彿とさせる人はいる。でも、私にとって夫を超える人は、これまで存在しなかったし、きっとこれからも、存在しないのだと思う。

でも、その先にある子供というもの。私がずっと追い求め、望み、夫を苦しめた「子供」という存在は、きっと私にとって今もなお救いになるのだと思う。

赤ちゃんが生まれれば、私はまた最大の生きる意味を得るだろう。

パートナーとしては、きっと生きる意味ほどの人に出会うことは、きっと私のひねくれた嗜好では、無理だろう。パートナーがいなくても、私の子に出会うことは可能なのだろうか。

今のところ夫の命日を様々な判断の期限としているけど、それまでに自分がどの道に進むのか、先を見通すことはできない。それは、日々変動し、今もまったく予想ができないのであーる。