優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

適材適所の直感

今晩やってたクローズアップ現代に触発されて、自分がこれから人生で取り組みたいことについて考えていた。

正面きってそういうことを考えることは、まだ自分に許せていないけど、私がこれからも生きることを選ぶのであれば、やっぱり私は私自身に、何かの役割を託したがる。

そんなことは、別に死別者全員が背負うものではないと思う。ただ、個々人の性質に応じて、自分が生き延びながら生きる意義を感じる行動を、探す作業なんだと思う。ただ故人のことをずっと思い続けることが、一番、一番、大変なこと。苦しいこと。残された側からすると、自分が一番すべきことにも思える。

でも、私はもっとずるくて弱い。開き直ってはダメなんだけど、ただ背負ったまま生きるくらいなら、生きたくない。夫は、こんなことを言う私をどう思うかな。夫が私に辛辣な言葉を投げることは想像できないけど、今は喜びはしないかもな。きっと今は、未来に向かって歩み出す私なんて、応援できないんじゃないのかな。まあ、私だって当面、引きこもっているつもりだけど。わかりやすく言えば、絶賛喪中下にある。喪が明けたかどうかは、私が決める。今のところ、喪明けがいつになるかは、私にも想像がつかない。

こんなことを言っていながらも、やっぱり同じ労働をするくらいなら今の会社は離れたくて、何か私や夫と同じような経験をする人々が救われるための制度構築ができないかと考えている。実は、数週間前に、放送大学の入学資料を取り寄せて、せめて心理学のいろはくらい学ぼうかなと思ったのだけど、夫と自分のことを振り返って、それが次のステップに必要なのか、自問自答している。

私は、夫の苦悩に寄り添えなかった人だ。きっと、人の苦しみとか悲しみに寄り添うことは、本当に向いていない。人の気持ちを想像するために必要な柔らかさみたいなものは持ち合わせているのだけど、生来の苦悩とか、生い立ちからくる苦しみの実体験が、やはり欠けているように思う。今や夫の死という実体験を持ったものの、それでもまだ何か足りないものを感じる。それが私の関心分野に必要なのかわからないものの、なんとなく、どことなく、この分野との不一致を感じる。

それより、私はやっぱりそういったことに必要な制度構築とか、渉外とか、そういう分野なのかなと思う。適材適所という意味では、その直感を信じた方がいいのだろうか。

まだなーんにも始動していないのだけど、自分というコマをこのおぼろげなプランの中でどこにあてはめるのか、今日はクロ現を見ながら、放送大学の入学案内の封をようやく開けて、ぼんやり考えていた。

考える時間はまだたっぷりあるし、入学して卒業してもまだ考えているかもしれないし、とりあえず、喪中ながら動いてみようかな。多分、まだ動かないけど。

ただちょっとだけ、今居る場所から数メートルだけ、明るくしているような作業。