お花をあげること
3月の夫の月命日だったかに、夫の遺影の両脇に初めてお花をあげた。ずっとお花をあげることは遺影であることを際立たせるのでできなかったんだけど、もう何もできない相手に対して何かをしたいと思って、あげてみた。
おばあちゃんの預言通り、椿の花のその後の様子はけっこうシュールだった。私が部屋で仕事をしていると、遺影の周りから「どんっ!」と音がする。見にいくと、でっかい椿の蕾が、丸ごとごろんと転がっていた。咲いてくれると思った蕾は、どれもそのまま落ちてしまった。
先週は、母に促されて庭のチューリップをあげた。夫も私も花はあまり得意ではないけど、チューリップは他の花に比べてやや単純な構造で、グロテスクさが弱いから良いかなと思った。今、夫の遺影は両側をチューリップの花が囲んでいるのだけど、チューリップもいざ花弁の中をみると、けっこうにグロテスクだ。きっと夫は、全然喜んでいないだろうなと思った。きっと、「みんみん、これ、枯れてきたし、なんかポロポロ落ちてきたから、もういいんじゃない?」って苦笑いしながら言ってそうだと思った。
私自身の意見としては、辛気臭い私の部屋に生命力を持った華やかなものが置かれるのは、まあまあ良いなと思う。でも、どうも花をちょんぎる時の気分が、いやだ。花屋で花を買うことは良いのに、庭の花をちょんぎるのが嫌だ。これは、スーパーで豚の薄切りを買うのはいいのに、養豚場で出荷される豚を見て不憫に思う気持ちに似ているのだと思う。
母は、私が花をあげるようになったことを応援してくれている。「みんみん、庭のどこどこにこんな花が咲いてるよ。生けたらすごく可愛いんじゃないかな」と頻繁に勧めてくれる。それを私は素直に受け止められない。数少ない夫のためにできることなので、花の発見から生けるところまで、私は自分の力でやりたいのだ(育てるところはお任せなのだけど)。もし母が花を切って渡してくることがあれば、私はきっと母専用の夫くんの遺影と花瓶を居間に準備してしまうかもしれない。こんな気持ち、誰かにわかってもらえることはあり得ないのだけど。私だって、おじいちゃんが亡くなってすぐの頃、仏壇のご飯とかお茶とか、いつもおばあちゃんより先にあげてたもんね。お手伝いと思って。
夫はきっと、「みんみん、お花は春だけでいいんじゃない?」って言ってる気がする。ああ、この強要するでもなく、ちょっと遠慮気味に、苦笑いして提案してくる姿が、可愛いんだよね。もうツッコミ待ちでものすごい植物園のようなものを作ってやろうかなとも思う。
それにしても、問題は花を切る時の私の気持ちをどうするかだ。椿の花を飾ったとき、母は「お花あげることにしたの?」と私に聞いてくれた。「わかんない。お花を庭から持ってくるより、夫くんの遺影を木の上に置いとく方が早いよね」と私が言ったら、母は閉口して、会話がチーンと終わった。
ブラックみんみん。お花をあげることには、まだ素直になれません。