優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

プレゼントから考える

とうとう4月になってしまった。

年明けから、4月になることがずっと怖かった。

4月は、私の誕生日。

夫に毎年、ものすごく大切に祝ってもらっていた日。誕生日当日は大学の授業だったり仕事があるので、夜だけ会って、外食してお祝い。週末には、もっと盛大にお祝いした。盛大といっても、それは私と夫の気持ちのこと。夫は私に、「今日はみんみん、バースデーガールだもんね!」と言って、私が喜ぶ食べ物とか、行きたい場所とかを考えて、全力でお祝いしてくれた。

夫がくれるプレゼントには、毎年心がキュッと締め付けられた。私は夫の誕生日には、夫に事前に欲しいものを聞いて、その中から選んだものをあげることが多かった。プレゼントは、ほぼ毎年上着だった気がする。夫は、年ごとに、いろんなものをくれた。まるで私がその時必要としているものをすっと差し入れるかのように、その年齢やタイミングで私にふさわしいものを、心を込めて選んでくれた。それはカーディガンのこともあれば、スカートのこともあったし、ネックレスや、パジャマのこともあった。夫からのプレゼントを開けるたび、私は驚いて、感動もした。「一体どれほど歩き回れば、こんなに私が喜ぶものを見つけられるんだろう?」と思った。夫がくれるものは、それほどに可愛くて、初めて見るのに、「ああ、私はこれが欲しかったんだ」とすとんと腑に落ちるものばかり。私自身も気づいていない、心を読まれているような気持ちにいつもなった。

実はプレゼント選びは難しい。これまでの人生で、誕生日にもらったまま着ない服など、たくさんあった。夫はなぜあんなにプレゼント選びが上手だったのだろう。夫は、押し付けじゃないから。私のことを、よーく見てくれているから。自分が相手にあげたいものじゃなくて、相手が欲しいものはなんだろう、というところから発想してくれているから。だから、あんなに気持ちに寄り添うプレゼントが選べるのだろうなと思う。本当に、申し訳なくなるほどに、優しくて、優しくて、優しい。私は、その100ある優しさに、100の感謝を伝えられたのだろうか。こんなにも嬉しかったと、表現できていただろうか。

もう一つ夫がくれたプレゼントを思い浮かべて、考えることがある。私は普段から、洋服が好きで、いろんなものを着ている(つもり)。自他共に認めるところでは、クラシカルな雰囲気の服も似合うし、パステルカラーなどのちょっと派手なストリートカジュアルもまあまあ似合う。自分で買う洋服は、このどちらかが多い。夫もまた、クラシカルな洋服が似合うのだけど、ストリートカジュアルは似合わなかった。何かが、合わなかった。それで、「みんみん、よく似合うよねえ、いいなあ」とよく言われていた。

でも、夫が私にプレゼントしてくれる洋服は、悪びれたストリートカジュアルのことはなかった。夫がくれるものは、いつだってクラシカルな雰囲気のものだった。角がなくて、ふんわり、優しい服。着ていると心がまっすぐ綺麗になるような服。気張ったり、何かに浸ることもなく、まったく無理がない自然体の、それでいて、可愛らしさのある服。くれたアクセサリーだって、まったく毒気がない。ほそーいネックレスに、小っちゃなピンクの花のプレートが付いた、AHKAHの可愛いもの。可憐なんだけど、嫌味がなくて、色気もなくて、どこまでも、可愛い。そして、小さい(笑)

私は、そんなプレゼントをくれる夫が、大好き。

そういうものを私にくれたことが、とても嬉しい。

夫がくれたものを見ていると、これからもまっとうに生きなきゃいけないと思う。

夫が亡くなってから、夫を失望させた、見限られてしまったと思うことが多い。これは、思い当たるところもあって、自分が未熟なのに背伸びをしたり、イキがったりして、本当に情けなく、恥ずかしく、その時の自分が、嫌だ。でもそのことは撤回もできないし、なかったことにできない。自分で悔いるしかできない。そして、許されるならば、昔、夫が期待してくれた自分像にもう一度近づけるよう、頑張らないといけない。そう思えるようにならねばと、まだ自分に言い聞かせている。