優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

3回目の月命日

とうとう、3回目の月命日を迎えた。

ブログにも「3ヶ月後」という新しいカテゴリーを設定してみた。

先月に続き、今月もまた、夫が亡くなった時間のカウントダウンはしなかった。

午前中にふと時計を見て、その時間を過ぎていることに気づいた。

3ヶ月前から、私にとって14日という日が意味のある日になってしまった。しかも、何もめでたい日ではなくて、人生で最低の日。この日付とか時間とかの数字を覚えることが苦手な私が、結婚記念日すらうろ覚えの私が、一生忘れない日になってしまった。

とか言いつつ、もし30年くらいして、私が月命日を忘れていたら、きっとそれは十分すぎるほどに全てを消化したということなんだろう。自分のネジの抜けた脳みそだと、そんなことも起こりうると思うので、一応その可能性もここに記しておく。夫だって、きっと自分が死んだ日にそこまでこだわって覚えていてほしくないだろう。夫の魂が今も存在するとして、今はまだ私と同じように右往左往しているかもしれないけど、きっといずれは、自分が死んだ日より、2人の幸せで楽しい記念日をたくさん覚えていてほしいと思うだろう。私だったら、そう思う。だから、月命日の度に、私が一人で喪中モードで潰れる姿は、私だって嬉しくないし、夫だって嬉しくないはずだ。そんな日を毎月設けることは、なんの意味も持たないので、やめたい。当面は毎月考える。でも、これから一生の儀式にはなりませんように。

こんな風に、少し切り替えるための方策は自分でも浮かぶ一方で、切り替えて歩み進めた先に夫がいないことに気づくと、前に向かっていた私の矢印が、また慌ててUターンしてしまう。そして、夫がいない理由とか、どうすれば今も生きていてもらえたのかとか、もしいたらどうなっていただろうとか矢印が逆行して暴走したり、もう取り返しのつかない地点をうろうろぐるぐるする。仮定の、仮定の、仮定の話を思って泣いたりする。しかも、それが全部仮定であることを思って、またさらに泣いたりする。とにかく、泣くネタには事欠かない。本当に、事欠かない。

最近は平日にけっこうまともに仕事に集中するようになったので、週末はとにかく夫のことを考えて過ごしたいと思っている。その中で、大切なことに気付いたり、夫への愛情が募りまくったりするのだけど、やっぱり夫がいない中で生きる意味なんてないのにな。もう今すぐ意識を失って、戻ってきたくないな、と思う。夜寝るときだって、そう。毎晩、このまま眠って、明日の朝がこなければいいのにと思う。この気持ちは一体、どうすればいいんだろうか。とりあえず、そう思いながらも生きてるしかないんだけどさ・・・。