優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

死後の世界

早いもので、夫が亡くなって半年が過ぎた。

5ヶ月目に、これまで長かったなと思ったのに、そこから今までの1ヶ月は、なんだかあっという間だった。

ずっと、この半年のタイミングを一つの区切りにしようと思っていた。多分、5ヶ月過ぎた頃から、私は1月先の6ヶ月目の命日のことをずっと考えていた。

ただ、この区切りは、実は期待したようには運ばなかった。なんとなく、時期が近くなるにつれて、私は「うまくいかないのだろうな」という気がしていた。誰かの力を借りて、夫のことを近くに感じたかった。仲直りがしたかった。でも、私は、全部ひっくるめて、納得できないのかもしれないなと思った。きっと、信じる者は救われるんだと思う。でも、私はやっぱり、目に見えるものしか信じられないのかもしれない。

この区切りを持ったこと自体、全然後悔していない。私という人間は、了解可能な中でしか自分を納得させられないということが改めてわかったし、やっぱり夫はいなくなってしまったんだろうな、とわかった。死別した方の中には、そうすっぱりと割り切る人もいる。要するに、死後の世界があるかないか、という話。「死後の世界はない。一切が無になる」という考え方の人もいる。そう思えることは、すごいなあと思う。だって、自分の逃げ場とか、拠り所がなくなってしまうから。

私は、どうだろう。

夫が亡くなったときに、私にも目に見えない刀がスパっと振り落とされた。そのあまりの衝撃に、最初は痛みがわからなくて、あれ?そんなこと、ある?と放心した。しばらくして、遠くからの津波のような痛みが襲ってきて、私にぶちあたると、今度はドクドクという鼓動の音とともに、激しい痛みが体中を駆け巡った。

逃げだしようのない苦しみと痛みを感じていたのが、12月とか、1月頃だったと思う。この頃に、死後の世界があるとネットでみた。それを読んで、もう口元まで上がっていた水面が、さーっと肩まで引いた。それくらい、救われた。少し笑顔さえ出るようになった。まだ夫くんはいる。夫くんは私を見てくれている。夫くんと仲直りができる。死の悲しみすら、挽回する手立てがこの世界にはある。

でも、そのことを確認するのはまだ少し先にしようと思い、夫が亡くなってから半年後をその機会とした。それまで、ずっとこのことを心の拠り所としてきた。これ以上落ちたら、死への一歩を踏み出すかもしれないと思ったときも、半年までは、まず生きようと思えた。

そして今。やっぱり、それは、ないのかもしれない、という答えが見え隠れしている。

私はそれを確定させる勇気はない。確率論でいって、うまく夫くんの存在を感じられることもあれば、失敗することもあるだろう。たまたま、失敗してしまったのかもしれない。本当は、この世からはどんな方法をもっても実感はできないものの、夫くんは確かに私を見てくれているのかもしれない。なにもかも、わかりはしない。

そんな中で、もしもう夫が無になったと私が確定してしまったら、私自身は追い詰められる。

私が毎日泣いて呼びかけていることも、おすそわけで置いてあげているお菓子も、時々一口目をあげるコーヒーも、ぜーんぶ、あまりに虚しい行為になる。本当に、独り言。本当に、一人。

だからといって、私は納得できないことを、自分に言い聞かせることは、やっぱりできないみたい。だから、やっぱり曖昧にしておくしかないんだな、と思った。

それに結局のところ、私にとって大事だったのは、夫くんとまた出会うことではなかったのかもしれない。本当は心のどこかで、そんなことは叶わないとわかっている。ただ、あのどうしようもなく苦しかったときに、何か生き延びる目的を与えてくれたことに、この全ての経緯の意味があったのだと思う。きっとこうして、追い詰められては、救いを見出し、冷静になっては、何かを昇華しながら、この死別という経験を生きていくのだろうなあと思う。