優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

幸せの証明

4月の誕生日に続けて、5月の6ヶ月目の命日があり、6月は交際記念日がある。

その後は、夫の誕生日や、1周忌。

亡くなった日に向かうまでの数ヶ月は、きっと苦しいだろうなと思う。8月、9月、10月と、夫は異常な状態に身を置いていて、極限まで追い詰められていた。私も、自分に出来る限りの力を振り絞って、憔悴した夫の隣にいようとした。2人が社会から見捨てられて生きた時間。あの時のことを思い出す期間が、これからあると思うと、怖くなる。

なんで、私の人生は、こんなに苦しいことになったのかなと思う。夫が生き返ることはないので、この苦しい時間は、まだまだ続く。こんな体が軋むほどの苦しみを感じながら、これからも毎日を生きていくことは、弱音を吐くようだけど、とても大変だ。そのフィナーレとして、亡くなってから一年の命日があって、またそこから二年目へと続くのか。途方もない、という言葉しかでない。

それでも今は、気持ちが比較的穏やかな時期だ。本心では、これ以上の自責とか、自分の後悔を新たに探すことは不毛だと思っている。自責のネタは無限にあるわりに、内容としては小粒なものだから。その過程で美しい思い出さえ破壊してしまうから。それよりも、これまでに気づけた大きな反省について、逃げずに考えていくことの方が大事だと思う。どれだけ反省しても、その本当の相手は、もう声の届かない人、心から詫びても伝えられない人、許しさえくれない相手なのが、困る。このことも、またどこかで自分なりのタイミングとか区切りというものを持つのだろう。

対外的にはどうか。これは猛烈な強がりなんだけど、色々と思うところがある。側から見ると、私が夫の症状に困っていたように見えると思う。私が苦しめられたと思っている人もいるかもしれない。いくら私たちが夫を追い詰めた結果だとしても、人によっては亡くなった夫を責めたくなったり、怒りが湧く人もいるかもしれない。でも、私が一つよかったと思えることは、私の場合、夫へのそういう感情がないことだ。この後、どこかの段階ででてくるかはわからないけど、私は夫への複雑な感情はない。ある種、夫への感情はハートでいっぱいだ笑 私から夫に対してあるのは、まっすぐな愛情だけ。大好き、大好き、大好き。そして、私が今困ったり、苦しんだりしていることが、夫のせいだと思いたくない。もっと端的にいうと、夫に不幸にされたと誤解されたくない。夫は、私にとてつもない幸せを与えてくれたから。10年以上、笑顔でいっぱいにしてくれたんだから。これからも、きっと夫のことを想って、本当は笑顔でいたい。

その誤解をされたくなくて、ずっと引きこもっているのかもしれない笑 外に向かっていくときは、強がりでもいいから、元気に出ていきたい。夫が今も私に幸せをもたらしてくれていることを、私は自分で証明したい。悲しい出来事だけど、夫のせいで私がどうこうなっているとは思われなくない。

ようやく、こうして自分について考える機会を自分に与えられた気がする。こんなことを言う欲も、権利も、ずっと自分にはなかった。自分がどう見られたいか、文字に落として、少し考えられた。また気長に自分を見つめていこうと思う。