優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

みんな、脳内裁判に出てほしい

私は今、とても神経質で、懲罰的で、暑苦しい正義感に苛まれているようだ。

周りにギラギラ目を光らせながら、土下座する武士みたいな感じ。

自分に続いて、他の奴もおでこを地面に擦り付けて、夫に謝れよと思ってる。

この状況で、私から誰かを面と向かって責めることは、もちろんしていない。意識的には。でも、もはやこれが恨み辛みブログになっているように、私の他責的な感情は、闘病時から今まで、私の苦悩の一部となっている。それだけ、私が頑張っていたということの裏返しでもある。これまでの人生で、これほどに頑張ったことは、きっとなかったと思う。それくらい、いくつものいくつもの闘病のハードルを、夫と共に超えてきた。自分の限界への挑戦だった。夫は、限界を過ぎて死んでしまった。なんとも悲しい話。

私の中で夫が亡くなった原因探しは続いてる。自分の言動について、夫にも指摘された自己批評の視点で検証しなおして、自責的な考えもたくさん取り入れられるようになった。自己批評の目的は自責ではないのだけど、一度自分に疑ってかかることで、しかも批評に対して慌てて反論をしないことで、自分の全く至らなかった点を、次から次へと見つけ、また認められている。元々、フェアであろうという気持ちは強い方なので、間違いを見つけた後の受け入れはしやすい性格だと思う。ここを自身のプライドが邪魔して受け入れられないと、また違った苦悩に発展するのだろう。それは、私にとって不幸中の幸いである。

でも、自分以外の人の言動については、やりとりがインタラクティブではないので、乗り越えることができない。あの時、あの人は、ああした、こうした、こんな態度で、こんな風に見捨てられた。こういうことを考えても、考えても、本当に報われることはない。夫への謝罪の言葉は、誰からも生まれない。

よくテレビや新聞で、裁判で罪に問われた人が反省しているか、していないかが遺族の関心の焦点としてコメントに出てくる。本人から反省の言葉が聞けなければ、やはり遺族は報われないのだ。それは、たとえその人が極刑に処せられたとしても、反省の一言がなければ、報われないと思う。逆に言えば、共に被害者の気持ちに寄り添い、償いたいという気持ちを共有されるだけで、どれだけ救いになることだろう。きっと、今私は一人で裁判の遺族席にいる気分なのかもしれない。自分も被告人の一人だけど、それは別裁判でやっている。それよりもこの裁判は、被害者を夫、被告人を関係した人すべて、遺族を私とする、私の中での勝手な脳内裁判だ。

現実では、被告人はどの人もなかなか出廷してくれない。出廷しても、核心に迫る言葉は不思議なほどに言わない。もしかしたら奥に秘めているのかもしれない。でも、これだけ私が苦悩していても、その言葉すら聞かせてくれないのだ。悔やまれる、というどこか他人行儀な言葉ばかりが、亡くなってから今まで、ずっと虚しく流れている。

みんな、自分の心身の健康が大事だから。真実より、自分。夫より、自分。みんみんより、自分。相手から何かを引き出したいというヨコシマな思いで、私の方から反省の弁を述べることもある。すると、被告人は、私を慰め始める。被告人が、遺族を慰める。そんな逆転した状況が生まれた時、私の中では燃えたぎった鉄片の塊が、胃から頭まで逆流するような感覚だ。きっと似た境遇下であれば、こういう経験をする配偶者は多いと思う。

脳内裁判は、無期限開催なので、いつかみんなに出廷してほしい。

命を削ってでも、出てほしい。