優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

心病める人を支えるということ

夫の闘病から、亡くなるまでの経験を通じて、私の考え方は変わった。

これまでずっと、私はお花畑に住んでいたのだと思う。

誰とだって、ちゃんと話せば、いつか理解しあえる。通じ合える。愛しあえる。捧げあえる。信じあえる。認め合える。一緒に未来に向き合うことができる。私の中では、地球まるごと、そんな性善説でできていた。私は、社会的弱者になったことがなかったから。常に社会的強者の側にいたからこそ、この世は可能性と優しさと思いやりが溢れていると信じていたのだろう。

本当は、傷だらけになった私に、そして重体になった夫に、駆け寄ってくれる人なんて、いなかった。それはどれほど近い関係の人でも、そう。夫が亡くなって、自分が遺された世界を見回したときに、この中の誰も私と夫を助けてくれなかった、と思う。こんな世界で、私はこれから誰をどう愛し、大切に思っていけばよいのかと、考えたこともないことを考える。自分の中で絶対的な存在であった全ての人に、不信感が湧いてしまったのだと思う。それは、これまで絶対的な人であるほど、強い不信感が。

成人した夫婦なのだから、助けてもらいたかったと思うこと自体、本当は間違っているのだろう。自分たちが困ったときだけ、虫の良すぎる話だったのかもしれない。情けないことだとわかっている。すべてが逆恨みでしかないことも、その通り。

こういうことを考えるたび、夫から見た私も、またそういう存在だったのだろうということに気づく。夫が発症後に一時的に回復した時期、私は往診医が来る時間以外は、自宅で夫の苦しみについて夫と話さなかった。かっこよく言えば、夫のタイミングが大事だろうとか、夫が話したいときに話すだろうと考えていた。でも、同じ待つにしても、私は待ってる間に夫の苦悩を理解しようと書籍を読んだり、情報収集をしていたわけでもなかった。私は、ただ隣でいつものように働き、夫が作ってくれるごはんに喜び、詰めてくれるお弁当に感謝し、一緒にテレビを見たり、お菓子を食べたり、外食したり、パンやお菓子を家で焼いて、夫にふるまっていた。要は、気楽で、楽しいことだけしていた。快楽主義的に過ごしていた。

夫が死んで、私自身が苦しい気持ちになった。それで、あの時の夫の気持ちがようやくわかった。確かに周りが楽しい時間を用意してくれることは有り難いし、おいしいものを食べるのもまずいよりは良い。私の家族が一生懸命、色々な食事を準備して喜ばそうとしてくれる気持ちも、嬉しい。

でも、私が一番求めているのは、私自身が毎日、毎時間感じている、この心が破裂しそうな苦しみと悲しみを聞いてもらうことだと思う。それは、ただそっとしておくことではなくて、言葉を使って、対話することだと思う。そういった時間を持つことは、食事とは比べ物にならないくらい、本質的な意味がある。それはきっと周りからすればタイミングが見付けづらく、介入するたびに時間もかかり、忙しい日々ではできないこと。深海にさらに穴でも掘ったような場所にいる私に、普通の人がペースを合わせて話すことは、きっととても労力を要すること。しかも、ちょっとした失言とか、失敗とかで、私から感情をぶつけられることもあるかもしれない。でも、私がいま必要としている支えを聞かれれば、そういうことなんだ。

あの時期に私が夫にしていたことは、これとは全く違う。ややこしい話も、面倒な話も、一切立ち入らずに、ただ夫の隣で楽しく生活していた。夫は、一人でずっと苦悩に向き合っていた。ずっと自分の中で、とてつもない竜巻が渦巻いていたことだろう。そんな横で呑気に生活して、向き合っていなかったのは、夫の苦悩を共有しなかったのは、私なんだ。

実を言うと、あまりよく覚えていない。夫がしょんぼりしていれば、「夫くん、元気ないね、どうしたの?」と聞いたと思うし、「最近どんなこと考えてんの?」と聞いていたとは思う。もし夫に話す意思があれば、そこからさらに深まっていったのかもしれない。夫が話していないのに、先回りして関連書籍を家に並べるようなタチでもなかった。でも、どこかの段階で、一人で抱え込んでいたら、苦しくなっちゃうから、話して欲しいともっと強く求めればよかったのだろうか。結局は夫に全て見透かされて、話してもわからないだろうと思われたのだろう。夫が相談したいと思える妻としての態度と思考を準備することを、私が放棄していたことを、私は反省するしかできない。