優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

苦悩と宗教

本当に苦しいときって、例えば病院にいったり、カウンセラー に会ったりする気力や勇気が失せると思う。自分の苦しみが何重にも重なっていて、もはやこの複雑なものを理解したり、期待するような反応をくれる他者なんていないんじゃないかと思う。

夫が亡くなってからというもの、誰かに相談した方がいいほど私は苦しい状態にあるけど、第三者に相談したり、治療を求めたりしていないのは、そういう背景がある。一度だけ、会社で設置されてる医療相談窓口みたいなところで産業医に相談したら、「まー、旦那さんのような状態の人は、亡くなるもんだから」みたいに言われて、それで「あ、もういいや」と思ってしまった。産業医は、生きている私が気楽になる言葉と思って言ったのだろうけど、私は夫の尊厳を傷つけるひどい言葉だと思った。こればかりは、立場の違いなんだけど、医療はとりあえずいいやと思った。

それでも、慰めを求めてネットを彷徨っている。最近は、こういう状態に対して、現実的な慰めって、特にないんだろうなあと感じてきた。夫がいないという状況は覆しようがなくて、あとは自分がそれにどう向き合うかなんだけど、今は亡くなってまだ2ヶ月ちょっと。別に楽になる道があるわけでもなくて、ただ夫のことを思って、なるべく近くにいると思いたいだけ。それって、多分医療じゃないんだと思う。

いろんなSNSやブログで、同じような境遇の方の発信を見たけど、お互い重傷な状態にある中で、実はあまり慰められるわけでもない。みんな、いかに苦しいかを発信することに一生懸命になる。私だって、そう。楽しい話とか、明るい話を発信する自分なんて嫌だから、自動的にネット上の発信は悲しい話になる。同じような遺族の方とも、会って話せたら、また違うんだと思う。会って話したら、きっと最初の1時間くらいはお互いの死別の話をするけど、あとの数時間はただ楽しくお茶を飲んで日常の話ができるんだろう。日常の話をしながら、本当は苦しい気持ちがあるってお互いわかってるだけで、今私が会えずにいる幸せな友人たちとの関係とは違う、同志みたいな関係になれるのかもしれない。相手が突然泣きだしても、自分が突然眉間にシワが寄っても、お互いそういうもんだよ、大丈夫、と慰め合えるかもしれない。でも、まあ、そういう死別コミュニティみたいなものは、今のところ一切参加していない。

そんな感じでネットを彷徨った結果、今の自分に一番の寄り添いを感じるのが、お坊さんが相談者の悩みに答えるサイト。相談者はいろんな人がいて、死別に限らず、いろんな人生の苦悩を吐露して、それにお坊さんが答える。お坊さんの答えって、現実を超えた、何か超越的な世界も含めて、若干ファンタジーみたいなものも含めて、あるいは信仰心とか、仏の世界も含んでる。今、目に見えるものに救われる要素がなくて、なにかそれ以外のものにすがる自分には、フィットする。

夫が亡くなったとき、「夫くんは何があれば救われたのだろう」と父と話したとき、私は現実的なソーシャルサービスみたいなものを挙げたんだけど、父は、「やっぱり宗教かなあ」と言った。父は、けっこう現実主義なので、宗教への親近感とか、信仰心はないはずなので、意外だった。父も年齢を重ねて、現実だけで説明したり、乗り越えられない難題に遭遇して、今はそういう境地にあるのかなあと思った。そして、最近、私自身、確かに〇〇病とか、〇〇症とかラベリングされることなく、丸ごと包んでくれる宗教は、救いだなと思うようになった。

夫が亡くなってからずっとテレビ番組の内容がどうでもよすぎて集中できなかったんだけど、亡くなって1ヶ月くらい経った頃に、京都の尼寺のドキュメンタリーみたいなものを見た。山の上で尼さん2名とお手伝いの方が3人仲良く暮らしていて、とても穏やかな気持ちで見ることができた。なんでだろう。この人たちなら、今の私の状態を、病名でジャッジすることなく、当然の人間の苦悩として、受け入れてくれるかもしれないと思ったからかな。京都のお寺だから私の家からはとても遠いのだけど、今すぐ行って、私の気持ちを聞いてもらって、何か言葉をかけてほしいなあと思った。

歴史上、宗教は争いも産んできたから、私は諸手を挙げてそれを賛美はできないのだけど、精神的な支えと言う意味では、生きることを正とする社会であるならば、もっと浸透してもいいのかなと思う。夫が亡くなったとき、私に尊厳死という選択肢はなかった。とても苦しいのに、それでも遺族はとにかく生きることを要求される。そして確かに、生きたいという気持ちも、自分の中にはある。これまで私は、ずーっと科学信仰で、証明できないことは誤りだと思ってきたけど、さすが歴史を通じて人間が生み出しただけあって、やはり宗教というものは、苦しみに陥った人間が生きていくために、必要なんだと思う。

と、そんなことを考えた後で、突然思い出した。夫が体調を崩すわずか数週間前、広尾のお寺で開催されている座禅会に2人で行った。いろんなことにやる気をなくして、厭世的になっていた夫が、めずらしく意欲を見せて、行くことにした。でも、ちょうどその前に私の姉のアパートに2人で行っていて、少し出向くのが遅くなった。広尾の駅から走って、17時の開始ぎりぎりにたどり着いたのだけど、もう参加人数も満席で、時間も遅いということで、参加できなかった。その後、再度座禅会に私たちが向かうことはなく、夫は発症した。

座禅会に行くことを提案したのは、夫だったと記憶している。夫は、私の姉のアパートなど早くあとにして、座禅会に向かいたかったかもしれない。でも、きっと私がだらしなく、だらだらしたのだと思う。夫は、早く行かないと遅れると言い出したかったかもしれない。夫は、とても時間の管理が上手なので、きっと遅れることくらい、事前にわかっていた。そういう場所につながることができれば、何か救いがあると夫は感じていたのかも知れない。もし座禅会に参加して、お坊さんの説法を聞いたら、そこで夫は涙して、自分の苦悩を吐露できたかもしれない。カウンセラーとか、医者とか、そういうものに関わることは嫌がったけど、きっとこういう形であれば、夫は人とのつながりを持てたかもしれない。そんなきっかけが夫の発症前にあったことを、ずっと忘れていた。

こうして私は自分自身の苦悩に向き合う中で、また夫にしてあげられなかったことを、一つ思い出した。心の中で詫びることしかできないから、またとても辛いし、悔しい。どうにも、こうにも、残念ながら取り返しはつかない。