優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

自責の先の本気度

私は夫が人生最大の悩みを抱えた時に、切り捨てるような発言をした。

夫が苦しいとき、ひどい言葉をたくさん浴びせて、夫を追い詰めた。

最後に3週間見捨てて、孤独の果てまで追いやった。

その結果、夫は生きられなくなった。死んでしまった。

私が考える、夫の死に対する私自身の責任は、上に書いたようなこと。

夫が亡くなった全ての責任を私が背負うことはない。でも、パーセンテージとか、誰の方がもっととか、そういう考えは私自身が苦しいし、答えのないことだから、私は私ができる後悔、反省、懺悔、謝罪、そんなことを夫にしようと思うようになった。残念なことに、その先にあるはずの「和解」はない。それは、夫がこの世にいないから。だから、いつまでも私はこの懺悔を独り言として言い続けるのだと思う。

これほどの責任や過ちを自分の言動に感じたことは、人生で初めてだ。この経験を通じて、責任を取るとか、罪を認めるとか、誰かに償うとは、どういうことだろうと考えるようになった。

これまで、人が謝罪することは、反省を示す行為だと思っていたけど、本人が楽になろうとする行為でもあると思うようになった。「許してください」なんて言葉は、その極みだと思う。「罪悪感で苦しいです。私の気持ちを楽にしてください。」と言っているようなものだ。相手に「いいよ」と許してもらえれば、少し肩の荷が下りる。

夫が亡くなったことの一因を背負おうと、過去5ヶ月に亘って毎日考えている私だけど、罪を背負うことは、とても複雑なことなのだと実感している。私が散々自責を述べた後で、誰かに「そうなんだ、みんみんのせいだったんだね」とか、「みんみんの言葉が影響したんだろうね」と、私の訴えそのままに理解されると、それはそれで、何か不思議な気持ちが湧き上がる。このことに気付いてから、私は自分の欲望に気づいた。私は、周りの人に自責しながら、救われたいとも思っている。「そんなことないよ」とか、「きっと夫くんはみんみんの真意をわかってくれたよ」とか、言われたいみたいだ。自責をそっくりそのまま納得されたときには、「えっ、ちょっと待って!」という気持ちになる。自分は、なんてずるいのかなと思う。

私が責任を負いたがる理由はなんだろうか。夫が亡くなってすぐ、同じように責任を感じるはずの人たちが、夫が死んだのは「病気のせいだった」と言うのを聞いてから、始まったように思う。夫にとって、あまりに理不尽だと思った。夫と同じような症状が出ても、生きている人はたくさんいる。夫が病気の影響下にあったとすれば、夫を全力で保護するのは、私たち家族の役割だったと思う。その役割を果たさなかったのは、目を背けて自分の身を守ったのは、私たちだ。そして、私の場合、冒頭に書いたように、ひどい言葉で何度も、何度も、夫を傷つけた。追い込んでしまった。もし私がもっと優れた人物であれば、そんなことはしなかっただろう。人として未熟で、愚かだった。

ここまで書いているのに、自分が愚かだとわかった上で、救いを求めてしまう。これは、人間の性なのだろうか。他者のことは断罪できるのに、自分への断罪には、傷ついてしまう。傷つく上に、心がいやいやと反応する。これは誠実さがないからなのだろうか。こう書きながらも、心のどこかでは、「いや、みんみんは誠実さはちゃんと持ってるよ。人はそういうもんなんだよ」みたいな慰めを待っている。一体、どこまで諦めが悪いのだろうか。

こういうことを考え始めてから、刑務所とかでは、一体罪ということをどう教えているのだろうと思った。それとも、裁判とかでも情状酌量の余地ありとか言うくらいだから、裁かれた人は、その情状酌量の言葉を糧に、判決を受け入れるのだろうか。

こういうことを考えるうちに、自分が犯した罪について、人は心の底から100%受け入れることは、できないのではないかと思うようになった。それをすることは、自分を100%否定してしまうから。人は、自己に対して愛も期待も夢も希望も持っていて、自分というものを100%否定することは、とてつもなく難しいことなんじゃないか。きっと、100%否定している人って、生きていないんじゃないか。同じ論理で、最近、自死というものについても、よく考える。きっと自死は、自分を100%否定しなければならない状況を回避する、最後の選択肢なのではないか。亡くなる前までに、人は何度も、何度も、自分をもう一度信じたいとか、もう一度愛したいとか、どこかなにか良いところがあるはずだと、何巡も何巡も考える。でも、それさえも信じられなくなったときに、自分の尊厳を守る最後の手段が、自死なんじゃないか。

心の底から100%罪を受け入れる方法があるならば、その境地に至れると良いのかもしれない。反省は色々しているのだけど、そのベースとなる罪の意識が、どれほど自分で持てているのか、どこまで突き詰めることが適当なのか、まだ答えはない。私の場合、夫が死んだのは夫個人の責任だとか、夫の選択だったとか、病気のせいだった、みたいに片付けることに、大きな違和感を持っている。それならば、「そうじゃなかった、私たちにも責任があった」という1行さえ言い続ければ、私は満足なのだろうか。

なんだか思考が詰まってきたから、今日はここまで。