優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

優しさにも種類がある

夫の優しさと私の優しさは、種類が違うんだな。昨日母親に言われて気付いた。

私の優しさは、優しくしたあとに自尊心が高まってる。相手のことを思ってるつもりだけど、あくまでも私という存在が、他者に対して外部から力になろうとするもの。周りから見ても、明らかな優しさや親切心が感じられる行為。

夫の優しさは、少し違う。

相手の気持ちにシンクロして、同化して、一緒に悩む。相手の悩みの中に、一緒に入りこむ。寄り添うことの究極形で、優しくされる側の私は救われるんだけど、周りから見ると、同化してるからどこが付加された優しさなのかわからない。むしろ夫はただそこにいただけにすら見える。本当は、都度全身で私の考えや悩みにダイブしてくれてるのに。夫が自尊心を高められたかも、わからない。目に見えてわかりやすい何かを与えたわけではなく、周りからも評価されることは稀だったから。

ダイブしてくれるたびに、私は夫に苦悩を吸収してもらった。夫の優しさが、いつもどこか夫を消費するような罪悪感をもたらしたのはこのせいか。夫が晩年、色んな人に利用されたと悲しんでいたのも、今ならよくわかる気がする。簡単に言えば、夫は自分の周りの人に、いつもいつも合わせてくれた。合わせるって、自分がわからなくなって、ものすごく苦しいよね。夫は、いつも自分は流されて、人に任せて、嫌なことから逃げて生きてきたって悩んでいたな。やっぱり、自尊心には繋がらない優しさだったのかな。

夫はああいう優しさをくれながら、自分の身を削っていたのかな。私は、夫の優しいところにいつも感謝の気持ちを伝えていた。夫は、自分の優しさこそが私に愛される理由だと思ったと思う。でも、実はあの優しさを提供することはずっと苦しかったのかもしれない。自己犠牲を払わないと、提供できないような優しさだったから。それと同時に、心が苦しくて前のように優しくなれない自分が、これから私に何を愛してもらえるだろうと不安にもなっていたかもしれない。

あの類稀な優しさを14年間も享受して、消費した私は、結局のところ、自己愛で夫を選んだのだろうか。それだけじゃないし、お互いがお互いから享受したものはあったけど、どこかで私は夫を都合よく消費してしまったのか?という、人の命を語るには適さない軽い言葉がちらつく。

どうなんでしょ。