優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

これ以上の何かを望めないし、望まない

半年経ったら、こうなっているかなという自分像があったのかもしれない。

具体的な何かというより、過去6ヶ月に比べたら、6ヶ月経った頃には、きっと心が幾分落ち着いていて、気持ちが整理され始めていて、前を向かなきゃと割り切る気持ちが芽生えているのだろう、と。

でも、そんなことないんだな〜。

そうなるはずだった。きっと、こんなにこじらせないつもりだった。

こじらせても夫は帰ってこないし、それほどの意味を一瞬一瞬が持っていたはずは、本来ない。決定的な一瞬はいくつもあった。でも、全ての一瞬が意味を持っていたわけじゃない。でも、もう11月に全てが終わってからは、2人の間で何も新しいことが起こらないが故に、過去に遡って、いまや全ての一瞬をしらみつぶしに意味付けしている。ときに、不健全で、ナルシストのように、全てを白黒思考で埋め尽くそうとしている。

夫が亡くなってすぐの頃は、そういうこともなんとなく想像がついたから、あまりこじらせてもしょうがないと思っていたのだろう。こじらせるというと、今の自分に失礼か。私はこれを人生の最優先事項として取り組んでいるのだから。なんというのだろう。思い詰める、ということかな。

最後の終わり方が、死だからこうなるのだ。最後が死ではなくて、再起であれば、私が思い起こしていることの多くは、過程に過ぎなかった。夫が苦悩したときに私が支えられなかったが故の発症ということはあれど、その後に続くジェットコースターは、その大部分が無我夢中で、絞り出せるほとんどの力と思考を使って、2人で取り組んでいた。2人は、2人3脚で苦悩に、病に立ち向かったと思いたい。きっときっと、2人3脚だった。最後に、その紐が解けてしまっただけ。解いて周りの駆けつけを待っているうちに、夫が苦しみで突発的に死んだだけ。せめて紐をほどかず、結んだまま、2人で堕ちて、いなくなれれば良かった。

でも、夫が闘病中、私は死を意識したことはなかった。あの時、死にますかと聞かれて、果たして私は夫と一緒に死んだだろうか。あの時は、死なんていうものは、今よりもずっと私にとって異世界のことだった。この人生を終わらせたいと思うことは、人生で一度もなかった。でも、夫はこの生が苦しすぎると思っていた。亡くなる少し前、そう私に伝えていた。それは、きっと一般的な終末期の闘病者と、健康なその配偶者と同じような構図だったのだろう。闘病している人は、毎日が苦しすぎて、良い展望を描けなくて、余程の精神力がなければ、殺してくれと思う。配偶者は、生きる方に向かうことに必死だ。2人で生きていくことしか考えられない。それは、溺れそうになっている相手を水面から上に引き上げるためにも、看護する配偶者に必要な思考なのだと思う。でも、2人の感覚が離れすぎた時、もう2人は助け合うことはできない。

夫が亡くなってから半年という区切りを、ある契機にしようと思っていた。その期限が迫っていることに、私は焦っているのかもしれない。それは前向きな契機になるはずで、私が励みにしていることでもあった。でも、今その契機を迎えようとする自分が、まったくその準備ができていないように思えて、焦っている。

夫は、今の私を見て、どう思うだろう。このところ、よく考える。よく考えるのだけど、答えがわからない。夫が私についてどうこう思う、というのがあまり想像できない。なぜか。夫と私は、お互いをものすごく大切に思っていた。ああして欲しい、こうして欲しい、なんて言い合うことはない。相手の意志をとても尊重していた。それを支えることが尊いことだとお互い思っていたのだと、今振り返るととても思う。だから、もし今面と向かって話したとしても、お互いに怒りとか、要求とか、恨みとか、そういうものは、出てこないのではないか。ただ泣きながら、自分の言動を振り返って、相手に謝罪の言葉を繰り返して、繰り返して、互いに泣きすぎてわちゃわちゃなって、慰めあって泣き笑いするような姿しか思い浮かべられない。

そうか、だから私は、夫が私に何を言うか、自分が夫に何を言うか、想像できないのか。お互い、きっと相手に語りかける言葉よりも、謝り続けてしまうから。何かを相手に要求したり、ぶつけたり、そういう会話をしてこなかったから。それは闘病生活の中では苦しみが続く要因になった可能性もある。でも、お互いが誰よりも、何よりも大切だったから、そうありたいと思っていたのだと思う。

2人の間には、優しさしかない。優しさしかないから生きていけなかったのだろうか。結局そんなところにたどり着いて終わる。夫は、優しくて、優しくて、優しかった。それがもっとどうであればよかったなんて、私がこれに勝ることを思いつくことなんて、ない。