優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

本にまつわる話②

本好きな夫が私に読書を奨めることは一度もなかったけど、プレゼントの形で贈ってもらうことは何度かあった。エドワード・ゴーリーという絵本作家の絵本を、付き合ってすぐの頃から数年にわたって、数えたら4冊、夫から贈ってもらっていた。その作家さんの絵は白黒で、ちょっと怖い雰囲気もあるけど、可愛くて、ユーモラス。夫は、クリスマスなどに洋服のプレゼントに添えて、1冊ずつ私に贈ってくれた。私としても、自分には分厚い小説よりすぐ読める絵本が最適だとわかっていたので、夫のチョイスになるほどねと思いながら、好みの絵に喜んで、自宅の部屋の本棚に立てて飾っていた。

それでもたった一度だけ、夫から絵本ではない小説をもらったことがあった。あれはなんのときだったか、もう忘れてしまったのだけど、カズオ・イシグロの「日の名残り」という本だった。「えっ、めずらしいね、なんで〜?」と聞く私に、「みんみんこれ好きかなと思って」と言って夫くんは微笑むだけだった。せっかくもらったので、私はそれを読んだ。イギリスの執事のお話。執事が、過去を回想して、回想して、回想しまくるお話。これが、私には、読めど読めど、風景が変わらなくて、読みながら一体なぜ自分がこの本を読んでいるのか、なぜ執事の一生を辿っているのか、全然ピンとこなかった。文字を目で追いながらも、夫はなんでこの本を私に贈ったのかなあ、という疑問で頭がいっぱいだった。それでも、きっと読み進めれば、最後には何か超どんでん返しとか、強烈なメッセージでもあるのだろうと思って、頑張って読み続けて、読み続けて、そのまま小説は終わった。

あの本はなんだったのだろう・・・と遠い目になりながら、夫には何度か私にくれた理由を聞いたのだけど、「え、なんかいいじゃん、ふふふ」とか「えへへ」という感じで、具体的な理由は教えてくれなかった。夫は、とても感覚的な人なので、こういう時に「なぜ」とか「どうして」を言葉で聞き出すことはあまり叶わない。だから、この本についてこれ以上夫の真意に迫れた記憶は、ない。百歩譲って、この本の良さは言葉で表現できなかったとしても、なぜ私に贈ってくれたのかは今でも知りたいところだ。本を読まないこの私に。芸術作品にピンとこれない私に。長編映画では途中で眠ってしまう私に。夫は、なぜ1ページ目から最後のページまで「平坦」が続く本をくれたのだろう?

なぜこの話を思い出したか。数日前に、カズオ・イシグロさんの記事がネットにあって、私はぼーっとそれを読んでいた。その中で、ちょうど例の執事の話も出ていた。どうやらあの本は、書かれた文章をそのままに理解するんじゃなくて、読者がいろんな推論をしながら楽しむものらしい。そうか、私は全てを文字通り取りすぎたから、全く面白さがわからなかったのか。夫なら確かに、そう楽しんだだろう。いつものように長い脚であぐらをかき、その上にこの小説を開き、口元には微笑みを浮かべながら、さらさらとこの本を読んだのだろうな。そして、自分がピンときた文章で、すっと止まって、ああだろうか、こうだろうかと、いろんな推論をして楽しんだのだろうな。一見平坦に見える文字列を読みながら、夫は空想を働かせて、時々上下左右にも揺られるスリルを楽しんだのだろうな。その感覚を私も、もっともっと、もっともっともっと、夫から教えてほしかったな。共有してほしかったな。わかりたかったな。もう2度と夫の口からこの話を聞けないことが、とても悲しい。

・・・と危うくこの記事も終わらせてしまいそうになったけど、書きたかったことはその先にある。そのカズオさんの記事で、面白い記述があった。

ニーチェは精神的抑圧の働きを要約し、「『私がやった』と記憶は言い、自尊心が『私がやったはずはない』と答える。結果は、記憶の負け」だとしたが、イシグロの小説では、小野の自尊心と記憶の綱引きは、自分自身にひた隠しにしていた物事に目を向けるときの、饒舌な語りの背後で行われている。

浮世の画家』の小野と同様、1989年にブッカー賞を受賞した『日の名残り』の語り手であるイギリス人執事スティーブンスも、自覚が足りなかった人物だ。スティーブンスは、人生の終盤になって初めて、自分がとりかえしのつかないことをしたのだと気づく。

courrier.jp

これを読んで、私が先日書いた自責の話と(僭越ながら)通じることが書かれていることに気づいた。そうか、私の自責は、ニーチェやカズオさんが説明してくれるのか。私が勘付き始めたのは、自分の中に湧き上がる記憶と自尊心のせめぎ合いなのか。夫が亡くなったことについて、自責をしたいのに、するべきと思うのに、する理由がいくらでも見つかっているのに、自分への最後のトドメをすかし続ける自分。ニーチェによれば、この戦いでは結局自尊心が勝って、記憶を撃ち倒してしまうらしい。それは確かにそうだろう。その結果しか、私自身、考えていない気すらしてきた。そこで記憶を、事実を、勝たせてしまうと、私はきっと、生きていられなくなる。呼吸ができなくなる。でも死ぬことは違うと思うから。でもこれが正しいとは思わないので、苦悩するし、ふと記憶が打ち勝つ瞬間もあって、そういう時は、いても立ってもいられなくなる。

実は、今日は夫が亡くなって以来はじめて、図書館に行った。実家近くの図書館のカードを再発行した。結婚前まで使っていた図書館。でも、再発行のカードは、夫の苗字の新姓にした。館内をぷらぷらと歩いていたら、カズオさんの本が並んでいた。もう一度読んでみようと思って、「Never Let Me Go」という本を借りた。

帰宅してから調べると、カズオさんの「遠い山なみの光」という初期の作品は、自殺で娘を失った母親が回想しまくる話らしい。しかも一冊まるごとかけて饒舌に葛藤するらしい。これは、今の私を鏡で見るような作品なのだろうな。でも、見透かされすぎても辛いので、こちらを読むのはもう少し先にしよう。

夫くんがカズオさんを突然くれたのは、こんな時のためだったんだろうか・・・夫くーん。夫くーーーん。