優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

死の音

何かの病気のように不可避のものでもなく、突発的な事故というわけでもなく、家族間の言動が絡み合って夫が亡くなったということに、また改めて後悔の念が湧き、あの日あの時あんなことをしなければ、こういう結果になっていなかったという単純明快な方程式が頭に何度も浮かぶ。

夫の死の前の3週間の自分の行動と思考回路、そして他の関係者の行動(思考回路は不明)、その結果夫が追い込まれた状況、当日の全員の言動、これが全て頭に断片的に浮かんだあとで、夫の死の音が聞こえる。そこで全てが終わって、夫がただ横たわる場面が数秒残像のように映る。

生きている世界と、死の世界の隔たりは果てしない。あの最後の音で、全てが途切れたなんて、あっけなく、どこまでも残酷だ。あのラインを超えることで、これほどまでに甚大な、取り返しのつかない結末がもたらされてしまうのか。そこに至るまでの、ある種滑稽なほどにお気楽な登場人物たち、それは自分も含めてだが、絶望的にめでたい人々の顔が見える。

こんな結末を望んでいなかった。でもどこかで私は夫に腹を立て、周囲に腹を立て、その全ての怒りを一番の弱者である夫にぶつけていたのではないか。夫を助けたいと言いつつ、思い知れと痛めつけていた節があるのではないか。少し懲らしめてやろうという魂胆があったのではないか。日記を読めばそんなことは書いてない。自分を信じることすら難しい。でも当然そういう気持ちになって、夫をとことん憎らしく思った日もあった。そう思いたくないのに浮かんできてしまう悪魔の思考を握り潰して、ひとしきり怒り、泣いて、いつも最後に残るのが深すぎる愛情だった。

もう、いやだ。こんな経験は本当にしたくない。夫も、わたしも、もっとたくさんの経験をして、成熟して、幸せになるんだったのに。受け入れることができない。