優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

誰にもわからない

前回記事を投稿してから、また時間が流れた。

その後私は、予定通り、新居に引っ越した。まだ引っ越しほやほやだけど、なんとなくやっていけそうな雰囲気を感じている。

夫が亡くなった直後に、2人で暮らしていた社宅にひとりで泊まった時を思いだした。夫が亡くなってから初めて、涙を流さない夜だった。夫に見守られているような感覚。まったくの1人ではない、何か温かい気持ち。夫がそこに見えなくても、夫と一緒にいるように、息を吸って、寝食を共にし、1日を終える。外出する時のほうが、孤独感は強いかもしれない。部屋にいる時は、そこまで孤独な気持ちにならない。

すごく逆接的で、想像しにくいことだと思う。誰かと一緒にいない時間の方が、孤独を感じない。誰かと一緒であったり、一人きりの自分を誰かに見られる時間の方が、孤独を感じる。それは大自然のコテージとかに住む人も同じかもしれない。ひとりで住んでいる時は、静かに穏やかに、まるで理想の余生のように、心地良い時間が流れていく。でも、人が溢れかえった街中や都会に出ていくと、孤独を強く感じる。

実家にいる時のほうが、何か焦燥感を感じた。きっと、亡くなった夫と生きる自分を肯定できなかったから。親に何か言われたとか、おばあちゃんが何か言った、とかではない。でも、食卓に夫の写真を持参するのは最初の数回でやめたし、寝る時に横に置くことも数ヶ月でやめた。なんだか側から見た痛々しさを意識した気がする。でも、一人暮らしなら、何をしても大丈夫。ちなみに、夕食時は必ず夫のはがきサイズの写真立てを食卓に置いて、夫が好きな飲み物や食べ物を口に運ぶ度に、「食べちゃうよー!」とか、「おいしいかなー?」と声をかけている。写真の夫はぴくりともしない。でも、頭の中では夫が返してくれそうな反応がある。

側から見たら、ものっすごく寂しく見えるだろう。虚しさいっぱいだろう。ちょっとこの子は大丈夫かなと心配になるだろう。ところがどっこい、今の私は、こうしていることが一番安らぐことに気づいた。今日だって、寿司のパックを近くのスーパーで買った。夫が大好きなサーモンの握りが入っていることと、夕方で40%オフだったことが決め手だ。帰宅してから、「まさか醤油がついてなかったりして〜」と夫の写真の前で言いながら、そのまさかだったので、黙って調味料を荷ほどきできていない段ボールから探した。醤油は今ストックがない。冷蔵庫もまだないので、当たり前か。そこで前から夫が買い溜めてくれていたナンプラーがあることを思い出した。そして、江戸時代に醤油ができる前には寿司は塩で食べていたとかいう中途半端な知識も思い出して、ナンプラーと塩をテーブルまで運んだ。

パック寿司の食べ方。よく、夫ともケーキで何から食べるか、話したなあ。夫は元々は大好きな苺から食べちゃう派だったけど、きっと私と交際するうちにどんどんみみっちくなって、最後は苺を5等分くらいして食べる人だったかもしれない。私は、「みみっちい人間ではありません」と示すことに必死な人間なので、本当は最後まで苺を残したいくせに、充血した目で苺を見ながらあくまでも自然体で苺を残していますという体でスポンジを2/3食べ、そのあたりでみみっちく見えないように苺を丸ごと食べるような性格だ。でも、夫と私では、お互いこのみみっちいのがとても庶民的で、人間くさくて、愛おしくもあって、夫なんてその五等分した苺の一番赤くて熟れてるところを私に一生懸命くれるような可愛すぎる人だったので、全部懐かしい。全部愛おしい。

話はパック寿司に戻る。問題は夫が好きなサーモンをいつ、どういう味付けで食べるかだ。それは簡単。1個目から食べる勇気はない。このナンプラーの寿司がどんな味か吟味してからでなくてはならない。サーモンを最高の状態で食べられずに終わることだけは避けたいからだ。9貫ある握りの中で、中トロ1貫、マグロ2貫、カンパチ2貫、エビ1貫、いくら軍艦1貫、サーモン1貫、帆立1貫である。皆様なら、どれからいくだろうか?私は、迷わずカンパチ×ナンプラーからいった。その次にマグロ×塩を試した。ようやく3貫目で、「夫くん、サーモン、どっちでいく?」と聞いたら、時にびっくりの冒険性を持つ脳内夫くんが「ん〜、ナンプラーでいこか」とクールな感じで言い放った。だから、サーモンは3貫目にして、ナンプラーで私に食された。

「いっただっきまーす!」と写真を見て言いながら、食べる。味わっているのは、私。でも、本当は「おいしい?」と聞きたい相手は、夫くん。色々な感情が入り乱れているので、食べながら、しばし泣く。何をやっているのだろうかとか、なぜ夫くんがここにいないのだろうかとか、ここにいたらさぞかし喜んで、美味しい、楽しい、幸せといって、私ににっこりほっぺをピンクにして微笑んでくれるだろうと思いながら、泣く。でも、この食事中に泣くこと自体、実家ではできないのだ。今は食事中に泣きたくなることが私の自然体なので、やっぱりこれが、一番しっくりくる環境な気がする。

さて、まだこの生活が始まって数日。このところは、一時のように「今すぐ息の根を止めてほしい」という気持ちは納まっている。この後、どうなっていくのかは、誰にもわからないのである。