優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

ホワイトデー

夫のことを考える時間を減らすと、夫のことを思い出すことが難しくなってくる。思い出すことが難しくなると、なんとなく日常的には感情移入がされなくなって、私の中の夫くんワールドに蓋がされて、ただ「夫は死んだ」とだけ思う。ただの文字列。ただのファクト。

昨日の命日のように夫のことを1日かけて考える時間をもつと、日頃私が蓋をしている夫くんワールドが開いて、翌日の今日になっても、私はその夫くんが詰まったポットみたいな世界の中にいる。ポットの中は、あたたかい金色の光に包まれた世界で、夫くんの声とか、表情とか、仕草とか、そんなもので満ち溢れている。私は、夫くんの柔らかで優しい動作をたくさん思い出す。現実世界で視界に入っている目の前のものはあまり関係なくて、ただ頭の中で夫の姿ばかり思い出す。一体どこから声出てんのかな、と思うような夫くんのあのアルファー波だらけの声が、頭の中で流れる。人間に記憶があってよかった。空想があってよかった。こんなむかしむかしに聞いた声を呼びおこせてよかった。思い出したいと思ったときに、本人はいないのにこんなに思い出せるなんて、人はなんという特殊技能を持ったのだろう。

こんな状態のまま週明けを迎えたので、今日はとてもたくさん泣いた。さすがに月曜はまずいだろうということで、今、夜の0時も過ぎて、ポットのへりまでよじ登った。ぜえぜえ言いながら、片足ひっかけて休んでいるところ。ポットの中にいる間も、突然苦しい思いはやってくる。夫くんを思い出して幸せに浸っているときは良いのだけど、ふとこの愛しい夫がもういないことを考えると、途端に頭が絶望でいっぱいになる。絶望すると、家の窓とその下のコンクリを思い出す。そういう思考回路になっては、いけない。なぜいけないかわからないけど、とにかくいけないらしいんだ。だから、絶望の一歩手前で、わんさか泣いてしまうのが得策だ。

昨日はホワイトデーだった。

2019年のホワイトデーは、それはそれは幸せなものだった。前に、このブログでも書いたことがある:

thoughtsincircles.hatenablog.com

この1年後、2020年のホワイトデー。夫と私は絶賛大カオスの渦中にいたのだけど、実はこの日だけは、奇跡が起こった。ずっと果てしないほどの衝突をしていた夫と私の間で、デートに行く事ができたのだ。その日は確か休みで(カレンダーを確認したら、土曜日だった)、日中、私は夫と真剣な会話をしていた。いかに我々がピンチにあるか、もうこの社宅のみんなに噂され、非難されているということを、私はあの手この手で訴えていた。もう疲れ果てるほどに話し合った後で、私は夫に「夕飯一緒に食べに行く?」と誘った。絶対に断られると思ったのに、夫は、「行こうか」と言ってくれた。それで、前に2人が住んでいた大好きな街にバスで向かって、串カツと、大好きなお寿司と、焼き鳥やさんをハシゴした。

この頃、ずっと食事なんて一緒に取れてなかったし、ましてや気分よく話してもらえることなんてほとんどなかったのに、夫はこの日の夜、とっても優しかった。

寿司屋のカウンターに2人で座ると、夫くんが私の食べたいものを頼みなよと気遣ってくれる。私がつぶ貝が好きだから、この日も食べるように言ってくれた。普段は大人しい夫くんが、お寿司屋さんでは勇気を出して、2人分を注文してくれる。本当の夫は、こんなにこんなに優しいんだ。会話の中で、「ちょっと前、みんみんこんな話してたけど、あれなんだったの?」と正月明けに私が外食先でさんざんな目にあったどうでもいい話をまた聞いてくれたりした。夫はこの日、過去半年見たことがないほどに、穏やかで、本来の夫だった。私は寿司を食べながらウルウルと涙がこみあげた。嬉しくて、嬉しくて、信じられなくて、これは夢なんじゃないかと思って、自分のほっぺをつねった。本当にほっぺをつねったのなんて、一生であの一回だけだと思う。だから、この日の日記では、「幸せなホワイトデーになった」と書いている。

闘病の真っ只中でさえ、この日には魔法みたいなことが起こってた。ということは、私は夫と出会って、最初から、最後まで、全てのホワイトデーを幸せに過ごしたんだ。

でも昨日だって、決して不幸ではなかったんだよ。夫は目に見えなかったけど、ああやって写真の夫と一緒に、おいしいピザを食べられたことが、2021年のホワイトデーの、ちょっとした幸せだった。いないことでこんなに苦しくなるほど素敵な人に出会えたんだ。そんなことを思いながら、たくさんのピザを噛みしめたホワイトデーだったな。