優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

因果関係

夫が亡くなってから、私は自分が夫に対してどの時期にどんな行動を取ったか、たくさん振り返っている。私の頭の中では、夫と歩んだ日々があみだくじのような図になっていて、「この時私がこんなことしたから、最初の分岐で右に進んで、この時もこんなことしたから、また右に進んで、それでここも、ここも、ここも、全部こんなことしたから、三回右に進んで、最後に、ココ。「死」に辿り着く」と考えている。

自分が夫の苦しさに寄り添えなかった、深く傷つけた、無関心になった、責め立てた、追い込んだ、そんなあらゆる契機を、残念なことに、いくらでも思い出せてしまう。自分がこんな人物でなければ、夫は少しでも救われて、あみだを左に進めたかもしれない。そうしたら、今も生きているかもしれない。与えられたあらゆるチャンスで私は自分を優先して、夫をないがしろにして、最後はこの結果に向かってしまった。そう、考える。

少し背負いすぎだということも薄々わかっている。悪いこと、間違ったこともたくさんあったけれど、私自身、夫の力になりたいと心から思って行動していた時間もたくさんあった。歯を、食いしばっていた時間もたくさんあった。そういう時は、きっとあみだを何度も左に曲がろうとしていたのかもしれない。2人で力を合わせて、左に曲がれたことも、あるのかもしれない。でもそれがいつだったのかは、私にはわからない。ただなんとなく、あれだけ頑張ったのだから、そういうときもあったら良かったなと思うだけ。

私は夫が亡くなってから、生まれて初めて、消えてしまいたいと思うようになった。食事はちゃんと食べてるし、夜だってちゃんと眠れてるし、実家の家族にはおどけたりすることもあるけれど、やっぱり気持ちは、重傷。むしろ重体かもしれない。傷ついてるどころじゃない。言葉に言い表し難いほど、傷ついたままだ。今ぽわっと闇に吸い込まれて消えられたら良いのに、とか、夜眠りに着く前も明日目が覚めませんように、と日々思う。

でも、今仮に私が死んだとして、家族はどう考えるだろうと思った。家族は、きっと自分の一挙一動を振り返り、あの時もっと話を聞いてやればよかった、一人にしなければよかった、本人が言わなくても質問すればよかった、などなど、たくさん考えるだろう。

そして、きっとその振り返りは、全部正しい。確かに私は自分からは言わないだけで、もっと夫のことについて家族に関心と後悔の気持ちを持ってほしいと思っているし、家族が外出して家で一人になるたびに何か「今だな」という不穏な気持ちを持つ。部屋で泣きつぶれている日には、やはり少し心配してほしいという気持ちだってある。だから、親がこういう点について、もっとどうにかすれば良かったと思うならば、それはどれも、正解。

一方で、これは因果関係ということとは、少し違うのだと思う。少なくとも、親の言動は、私がいなくなることの要因とはならない。要因はいわずもがな、夫がこの世を去ったから、だ。

夫にとってはどうだろう?本当は同じ図式を当てはめられれば少しは救われるのだけど、夫の場合は、孤独であったことが亡くなった要因だとすれば、私はやはり因果関係の上にいるのだと思う。少なくとも、私と親の関係よりは、私は夫との関係において、因果関係に近い場所に位置していると思う。そして、今自責している内容も、いずれも夫の孤独を強めさせたという意味で、悲しいかな因果関係のゾーンにけっこう近いのだと思う。

こんな風に夫の経験と私の経験をシンクロさせながら思ったことは、残された人は自分の言動をいかようにも反省し、悔やんで、悪者と思って、自責できるということ。そして実際それらの自責は真実から大きく外れていないであろうということ。だから大いに反省すればよいこと。でも、その自責の内容と結果を因果関係で結べるかと言うと、恐らくいつでもそうではないということ。因果関係で結びつけることの妥当性は、ケースバイケースということなのだと思う。(あれ、私は救われてないけど、まあいいか・・・)