夫は私が公共の場にこうやって気持ちを吐露していることをどう思うだろう。
本当は、こういう気持ちは全部、回復した夫と話したいことだった。私は甘えた考えの持ち主なので、回復した夫から、いつか感謝してもらえる日がやってくると思っていた。今どれだけ私に怒っていても、きっと回復したら、「みんみん、色々ありがとう」と言ってくれるはずだった。そう言って欲しいというより、そう思ってもらえる報いの日を希望に、日々を過ごしていた。
でも、そんな報いの日を待たずとも、あの時の夫にも、そういう気持ちは既にあったのかもしれない。ないと決めつけていたのは私。夫は苦しいのに、時に敵とすら思える私に対して、感謝の言葉を伝えてくれた。本気で恨んでいたら、誰が「ありがとう」なんて言ってくれるだろう。誰が一緒に食事を取ってくれるだろう。あんな状況でも、きっと私を信じてくれていた。私の真意だって、感じてくれていたのかもしれない。夫は、私の気持ちがまっすぐであることを、誰よりもよく知っていたから。まっすぐではない私を、夫はきっと見た事がないと思う。夫も、私も、似た者同士なんだ。ずるいことも、曲がったことも、誰かを傷つけることも、嫌い。ほんと、そうなんだ。
私は夫の力になりたかっただけ。その気持ちだけで、やってきた。それだけなのに、力になれないまま、最悪のシナリオで全てが終わった。すべて終わっているのに、ゲームオーバーを受け入れられないテニスプレーヤーが、ラケット片手にコートに立ってる。「夫の力になりたい」とハチマキを巻いて、全力の闘志も、やる気も、愛情も持ち合わせたまま。そこから夫はいなくなり、観客もいなくなり、スクリーンにはエンドロールが流れてる。夫と私の出会いから死別までの写真が、オザケンの歌に合わせて映し出される。格好悪いどころじゃない。虚しい。ここから、この人物は、どんな表情で、このコートを退場するのか。そして、明日からの日々を、どう過ごすのか。
このプレーヤーは、エンドロールが終わる頃まで拳を握りしめたが、その映像も終わり、会場の撤収作業が始まる中で、その場に座り込む。私の人生で一体何が起こったのか、何が、どうして、こうなったのかと呆気に取られている。それで夕暮れ時がきて、ジャージを一枚羽織って、暗くなってからはライトが照らされた。やがて閉場の声がかかって立ち上がり、ようやく退場した。そのまま死んだような顔で自宅に帰る。どうやって帰ったか、誰が家の鍵を開けたのか、どうやって階段をのぼって、どう自分のベッドにたどり着いたか、覚えていない。でも、ベッドに寝っ転がり、夫の顔を思い浮かべて、涙を流している。
夫が、ただ私の頭の中で思い浮かべる相手になってしまったことを、まだ受け入れられない。今も生きている人を思い浮かべることは、実はほとんどない。亡くなった人のことは、ひたすら思い浮かべる。時間があると、すぐ上を向いて、夫を思い浮かべてしまう。夫は亡くなったんだなと、改めて思う。