優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

縦の絆と横の絆

夫が人生につまづいた時、そこから抜け出す支えになり得たのは、親子という縦の絆と、夫婦という横の絆。横の絆の当本人である私は、自分だけでは力不足だと感じたときに、縦の絆に期待を寄せた。縦の絆はたくさんの歪みがある。でも、きっと編み直せば、夫は救われるのではないかと私は信じていた。

でも、現実には他人の私が編み直しを迫ることなど、無理だった。それよりも、私は横の絆という自分に与えられた役割と使命に、もっと尽力すべきだった。本当は、私自分に至らないところが、これでもかというほどにあった。縦の絆に期待せず、時間を取られず、感情を揺さぶられることなく、私は私自身と夫の交流を最高のものにすることに、集中するべきだった。夫に全力で答えるべきだった。最近は、そんなことを、日々考えている。

それでも、この葛藤自体、理解をしてもらえないことは、やはり苦しい。

先方はもうとっくのとうに答えを出し切っていて、どの絆がどうなどと、疑う余地もない。過去10年間、夫と一番たくさんの時間を過ごしたのは、間違いなく私。思春期を過ぎた夫が、青年になり、自分の人生の舵を取っていくときに、ずっと隣にいたのは私。夫がぼんやりと描いていた夢が、私という存在によって現実的になり、挑戦をしていった。その過程で、良いときも、悪いときも、夫の幸も、不幸も、一番影響している他者は、私。

最初から、夫の病状に唯一気付けるのは隣にいた私であったし、最後まで近くにいたのが私であるから、夫が亡くなった中で、過去の後悔が一番大きいのは私だろう。そう、口を揃えて労いを受ける。夫の近くにいたのが私だけであることが、今でも私の最大の後悔なのに、近寄らなかった人は、近寄っていない時点で、最初から、最後まで、責任は負わない。それがもう、結論として固まり切っているようだ。

残された者の間でやりとりをするたびに、夫の死の悲しみをわかちあえる唯一のつながりに感謝する一方、最後までこの関係性が見直されることはなかったことを、どこまでも虚しく思う。しょうがないとわかっているのに、その事実を突きつけられるたび、圧倒的無力感を感じる。もう反論しようとも、指摘をしようとも思わない。ただ、飲み込むだけ。

「縦だ」

「横だ」

そうやって静かにお互いになすりつけ合っているのかもしれない。こんなに真面目腐って悩む私とちがって、先方はポーカーフェースで、既成事実としていくスタイルなのかもしれない。でも、そんなことを企図していると思えないほど、純粋な人たちなんだ。だから、きっと純粋に、信じて止まないのだと思う。そんな相手から、夫の死への後悔が一番あるだろうと励ましや労いを受けることで、私が一言も言えなくなる。

人にとって、「聞かないことにしている意見」というのがあるのだろう。その意見は、何度繰り返しても、どう訴えても、その相手に届いたと意思表示してもらえることはなくて、もうそれは、永久になかったことにされる。

自己批評という夫の遺言のような私への助言。私はこれからも、その視点をずっと持ち続けたい。私が確実にできることは、私について考え、見直すべきを見直していくこと。

こんな境地に至ることなく生きていきたかったけど、そういう境地なので、引き受けて生きるしかない。