優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

心病める人を支えるということ

夫の闘病から、亡くなるまでの経験を通じて、私の考え方は変わった。

これまでずっと、私はお花畑に住んでいたのだと思う。

誰とだって、ちゃんと話せば、いつか理解しあえる。通じ合える。愛しあえる。捧げあえる。信じあえる。認め合える。一緒に未来に向き合うことができる。私の中では、地球まるごと、そんな性善説でできていた。私は、社会的弱者になったことがなかったから。常に社会的強者の側にいたからこそ、この世は可能性と優しさと思いやりが溢れていると信じていたのだろう。

本当は、傷だらけになった私に、そして重体になった夫に、駆け寄ってくれる人なんて、いなかった。それはどれほど近い関係の人でも、そう。夫が亡くなって、自分が遺された世界を見回したときに、この中の誰も私と夫を助けてくれなかった、と思う。こんな世界で、私はこれから誰をどう愛し、大切に思っていけばよいのかと、考えたこともないことを考える。自分の中で絶対的な存在であった全ての人に、不信感が湧いてしまったのだと思う。それは、これまで絶対的な人であるほど、強い不信感が。

成人した夫婦なのだから、助けてもらいたかったと思うこと自体、本当は間違っているのだろう。自分たちが困ったときだけ、虫の良すぎる話だったのかもしれない。情けないことだとわかっている。すべてが逆恨みでしかないことも、その通り。

こういうことを考えるたび、夫から見た私も、またそういう存在だったのだろうということに気づく。夫が発症後に一時的に回復した時期、私は往診医が来る時間以外は、自宅で夫の苦しみについて夫と話さなかった。かっこよく言えば、夫のタイミングが大事だろうとか、夫が話したいときに話すだろうと考えていた。でも、同じ待つにしても、私は待ってる間に夫の苦悩を理解しようと書籍を読んだり、情報収集をしていたわけでもなかった。私は、ただ隣でいつものように働き、夫が作ってくれるごはんに喜び、詰めてくれるお弁当に感謝し、一緒にテレビを見たり、お菓子を食べたり、外食したり、パンやお菓子を家で焼いて、夫にふるまっていた。要は、気楽で、楽しいことだけしていた。快楽主義的に過ごしていた。

夫が死んで、私自身が苦しい気持ちになった。それで、あの時の夫の気持ちがようやくわかった。確かに周りが楽しい時間を用意してくれることは有り難いし、おいしいものを食べるのもまずいよりは良い。私の家族が一生懸命、色々な食事を準備して喜ばそうとしてくれる気持ちも、嬉しい。

でも、私が一番求めているのは、私自身が毎日、毎時間感じている、この心が破裂しそうな苦しみと悲しみを聞いてもらうことだと思う。それは、ただそっとしておくことではなくて、言葉を使って、対話することだと思う。そういった時間を持つことは、食事とは比べ物にならないくらい、本質的な意味がある。それはきっと周りからすればタイミングが見付けづらく、介入するたびに時間もかかり、忙しい日々ではできないこと。深海にさらに穴でも掘ったような場所にいる私に、普通の人がペースを合わせて話すことは、きっととても労力を要すること。しかも、ちょっとした失言とか、失敗とかで、私から感情をぶつけられることもあるかもしれない。でも、私がいま必要としている支えを聞かれれば、そういうことなんだ。

あの時期に私が夫にしていたことは、これとは全く違う。ややこしい話も、面倒な話も、一切立ち入らずに、ただ夫の隣で楽しく生活していた。夫は、一人でずっと苦悩に向き合っていた。ずっと自分の中で、とてつもない竜巻が渦巻いていたことだろう。そんな横で呑気に生活して、向き合っていなかったのは、夫の苦悩を共有しなかったのは、私なんだ。

実を言うと、あまりよく覚えていない。夫がしょんぼりしていれば、「夫くん、元気ないね、どうしたの?」と聞いたと思うし、「最近どんなこと考えてんの?」と聞いていたとは思う。もし夫に話す意思があれば、そこからさらに深まっていったのかもしれない。夫が話していないのに、先回りして関連書籍を家に並べるようなタチでもなかった。でも、どこかの段階で、一人で抱え込んでいたら、苦しくなっちゃうから、話して欲しいともっと強く求めればよかったのだろうか。結局は夫に全て見透かされて、話してもわからないだろうと思われたのだろう。夫が相談したいと思える妻としての態度と思考を準備することを、私が放棄していたことを、私は反省するしかできない。

5ヶ月を生きたんだな

昨日はいろんな思いがあって苦しかったけど、ここに書きだしてみて、何がもやもやしたかとか、日中に自分が何を頑張ったかわかって、少し気持ちが楽になった。最後には夫のことを書いて、ちょっと夫の様子を思い浮かべたりして、くらーい気持ちから始まったのに、やっぱり夫のことが大好きだなあ、とニコニコとあったかい気持ちになった。すごいヒーリング効果だなあ、ブログって。また、それが自己満足だけでなくて、色々な人に読んでもらったり、スタンプを押してもらって、ぐいっと底から持ち上げてもらった気持ちになった。本当に、ありがとうございます。

昨日、新しく「5ヶ月後」というカテゴリーを作った。あの日から、とても長い時間が流れたのだなと思った。ほのぼのとした私の人生であんな悲劇が起こって、どうしようもなく苦しくて。そんな想像したこともない苦しみと共に、私は5ヶ月も生きてきたんだ。これまでの人生で、こんなに時が止まった5ヶ月間はなかった。今は、1日、1日を生きるだけで、精一杯。生きることを肯定することで精一杯。あれほどに大好きな夫が死んでしまって、この世に意味なんてもうないと見限った後で、それでもまたこの生に意味づけをしていく日が来ると信じることで、精一杯。それでも、人は死というものは、なるべく、なるべく、回避するみたいだ。生まれた時から、死にたい人はいないもんね。本当は、生きるために生まれてきたから。

私は、環境的にものすごく恵まれている。自分の家族には回復を焦らされないし、相変わらずおばあちゃんの部屋で2人で寝てるし、収入だってあるし、元々の心身の図太さみたいなものも持っている。でも、死別の方法がなんであれ、もっとずっと大変な環境に突如として陥ってしまう人もいる。すぐに新しい仕事を探さなきゃならなかったり、実家には頼れずにひとり暮らしの部屋に引っ越さなければならなかったり、お子さんが小さくて、とんでもないプレッシャーで泣く時間さえ取れない人もいる。私からすれば、夫との子供はほしかったし、子供のためにも生きるという選択肢を持っている人は羨ましい。でも、死別直後の数年間に、自分の悲しむ時間も繰り上げて育児や介護をすることは、本当に大変だと思う。私なんかは完全に思考停止してても家族が面倒を見てくれるけど、育児や介護をする人は常に「ここで私が停止してはいけない」という観念との戦いだろうなと思う。

人は変化を実態よりも恐れるし、極端に過酷な環境にもすぐ慣れるし、そうかと思うと隣の芝は青いし、結局どれがいい、悪いという話ではない。ただ思うことは、私と同じような悲しい状況に陥っても、日々歯を食いしばり続けて頑張っている人はこの世の中にたくさんいて、私がその中で1人悲劇のヒロインになるわけにはいかなくて、むしろもっと大変な人を支えたいとも思うし、最終的にはどの人にも、この絶望の先に光が見えると良いなと思う。

デビル夫くん

ここ最近、少し気持ちが落ち着いてきていたんだけど、今週はおじさんが亡くなった話から、再び「人が死ぬ」ということについて考えたりして、気持ちが落ちつつある。そして、おじさんが亡くなったということから、引いては夫が亡くなったということも、再度突きつけられることが何度かあった。さらに今日は月命日なので、夫が亡くなる前後の時期のことや、当日の映像を何度も何度も頭の中で繰り返していて、とても苦しい。

結局私は、おじさんが亡くなったことは受け入れるようだ。死んだか、死んでないのか、なんてことで悩むこともないようだ。あれだけ好きな人でも、「もう会えないんだなあ」なんて割り切って思えるのか。今の私は、大切な誰かが亡くなったり、困ったりしていても、夫のことを考える時間をそちらに割こうと思わないみたい。何よりも自分の中で、夫のことがぶっちぎりの第1位に君臨している。夫のことを私から無理に引き剥がすと、気持ちが脆くなるので、こうして死んだ夫と、生きている妻の2者の世界に当面いた方が良いのだと思っている。それ以外に、世界の中で何が起こっているのかは目もくれずに。

こんな自分の気持ちに気づいたのは、おじさんと夫が一緒に映った写真を見たから。私は、どの写真でも、気づけばおじさんではなく、夫の顔を見ていた。夫の顔を拡大して、見ていた。要は、おじさんではなく、おじさんといた時の夫を見たかったみたいだ。なんということだろう。おじさんなら、きっとわかりやすく悔しがりながら、笑ってくれると思うけど。

大切な人、大好きな人の死なのに、なぜ私の反応はここまで違うのだろう。おじさんは、私にとって、とても大切な人だった。「好きな大人」と言われて真っ先に思い浮かぶ人だった。でも、おじさんは、私の存在の一部は、成してはいないんだと思う。私は、夫に依存していないとずっと思っていたけど、依存という言葉はさておき、夫が私の存在の一部になっていたと思う。ずっと、2人だけで生活していたんだ。2人で日々の生活を営んで、これからの人生を考えて、一歩一歩進むことを考えていた。夫と私という2つの円が重なり合ったところに、2人だけの人生を思い描いていた。

夫がいなくなって、自分が空っぽだったり、何者かわからなかったり、存在を危うく感じることばかり。夫が死んだことを認めたくないのは、それが悲しいからだけじゃない。その先が怖すぎるからだと思う。この自分が何者かわからないような、実存への脅威は、私自身の問題なのだと思う。

でも、この状態での社会生活は難航する。例えばおじさんが亡くなったのに、心をそちらに向けないことで、他の悲しむ人々とどうやりとりをして良いのかわからない。私がいるコミュニティで皆一様に反応するおじさんの死という出来事について、反応をしないことには、気がひけた。月曜は、おじさんが亡くなったことを私に伝えてくれるたくさんの「訃報」メールがあったけど、どれも返信せずにそのままにしていた。すると昨日、さらに1通メールがきた。「葬儀に行こうと思うが」というお誘いのような先輩からのメール。前から、私の状況を心配して、様子を探ってくれている、とても優しい先輩。そして探った結果は別の先輩に話してしまう人でもある。

このメールを受けても尚、私は反応したくなくて、返信しなかった。

でも、ここ最近、少しずつ感じている。いつまでもこんな我儘坊主ではいられないのだ。誰に何をされても、言われても、反応しないか、噛みつくか、くらいしかできない。好意を好意として受け取れない。これでは段々人に嫌われていくばかりだ。生きづらくなるばかり。ああ、この先輩にも(おしゃべりだけど)非はないしと思って、やっぱりもっと大人な対応をせねば、と思った。そして、今日返信した。「葬儀には行かないけど、おじさんの写真を見て過ごそうと思います」と書いた。夫のことは何も書かず。

夫のことをもう書いてしまいたい、書いたら詮索されるよりずっと楽だ、とも思った。でも書いたらこの先輩から全員に知れ渡ってしまうと迷った末、書かなかった。それに、この先輩に色々伝えたくない理由は、もう一つある。夫はこの先輩(男性)とも面識があるのだけど、あまり性格が合わなかったように思う。夫が読んでいたら怒るかもしれないが(読んでないよ)、ちょっとしたヤキモチだったと思う。先輩も、夫はあまり気に食わなかったと思う。

だから、夫が生きていれば、別に先輩には何も言わなくて良いんじゃない?と言いそうだなと思った。たまに夫がそういうよくわからないブレーキをかけてきたとき、私はめんどくさ!と思って自己判断でアクセルを踏み込んでいたのだけど。

でも今日は、夫の意見を尊重しようと思った。夫の遺影に「どうしてほしいんじゃー!!」と言ってから、もちろん返事なんてないので、ウーン、ウーンと考えた。私なりの夫への誠意の見せ方としては、この先輩に何も伝えないことだ!と思った。なんでもすぐに言いたくなる私が、夫のために我慢した。

先輩には「いい人から亡くなってしまいますね」と書いた。夫が死んだことなんて想像もついていない先輩は、「本当に」と返信をくれた。きっとこのやりとりを見て、夫は天国で邪悪な笑みを浮かべたのではなかろうか。デビル夫くんの一面である。

はー。夫には、今晩夢で褒めてほしいもんだな。

自分中心のうぬぼれ女の私も、先輩には言わずに我慢しましたよー!!

夫には満足気な表情でキャハハと笑ってもらってから、私を抱き寄せて、頭をわしゃわしゃと撫でてほしいな、と思った。

おじさん

今日は悲しいニュースが入ってきた。

私と夫がとてもお世話になった人が、亡くなってしまった。

私も、夫も、大好きな人。2人で揃って大好きな人は、この世にほぼいなかった。肉親を除いたら、この人だけかもしれない。

元は、私が仕事を通じて知り合った人。元ヒッピーと言うのだろうか。世界中を旅していた70歳くらいのおじさん。まっすぐで、ずるいことは嫌いで、でもどうでも良いようなずるいことなら別に良くて、とにかく人に愛される人。一見生き様がカッコ良いのだけど、虚勢を張っているわけでもなくて、愛情深い。いつも栄養ない食事で、お酒を飲んで、タバコを燻らせていた。

おじさんは結婚する前から行き当たりばったりだったけど、20代の頃にしっかり者の奥さんと結婚した。それでも、おじさんが落ち着いたパパになることはなく、お子さん2人が生まれたあと、家族4人で南米のボリビア に渡った。おじさんの話を聞きながら、私はボリビア の険しい高地を思い浮かべて、「へぇー、向こうで何してたんですか?」と聞くと、おじさんは「子供を公園に連れてってた」と答えた。なんでそんなこと聞くの?というおじさんの表情と、日本と変わらない子育て風景が浮かんで、私は笑ってしまった。この人は、全然かっこつけないんだなあ、と思った。

この人なら、夫も好きかもしれない。そう思って、ある機会に恵まれて、新婚の頃に2人を引き合わせた。夫は最初、別におじさんに関心を持っていなかった。少し大きめの飲み会で、夫にとってはおじさんはたくさんいる他人(おじさん)の一人。でも、おじさんは「ピーン!」ときていた。そりゃくるよね。ある一部の人は、夫を見ると、「ピーン!」ときてしまう。夫は、なんとも言えない空気を放っているから、一部の人は、絶対にちょっかいを出したくなってしまうのだ。

翌日、おじさんからメールが飛んできた。夫に、うちに手伝いにこないかと提案してくれた。夫はそういう話、絶対嫌なはずなのに、きっと第一印象が悪くなかったのだろう。重い腰をあげて、すったこらすったこらとおじさんのところに通うようになった。そして、おじさんのお昼を作ったり、書類作成をお願いされて、お手伝いをしたりした。おじさんが連れてくる色んな人に会って、その度に夫はぺこりとお辞儀をして、お茶を出したりしていた。夫は社交性の高いおじさんを観察していた。来訪者への応対を見て、「あ、おじさんこの人が本当に好きなんだな」とか、「お、この人にはおべっか使ってるな」なんて考えていたようだ。そして、おじさんも夫を毎日観察していた。まだ青年になりきらない夫に、若かりし頃の無鉄砲な自分を重ねていた。夫の壮大な夢を応援してくれたこともあるし、時には夫の夢を壊すようなことも言ったと思う。私の想像では、きっと、夫と私の関係についても、たくさん入れ知恵をしたと思う。おじさんは、いろんな修羅場を経験していて、夫と私の行末も、暗く描きたがっていた気が、なんとなくする。「いつか捨てられちゃうよ」と言われたとか、言われてないとか。そんなことを夫から聞いたのか、私の空想だったか、もう定かではない。

それでも、夫はおじさんのことがとても好きだった。引っ越しで遠くなってしまうので、もうおじさんのお手伝いに通えなくなるとわかったとき、夫の方からおじさんと食事に行こうと私に提案してくれた。

夫が誰かを信頼したり、興味を持ったり、好きと思うことは、とてもレアだった。ましてや、自分から私に誰かを会わせたいと思ったり、みんなで食事に行こうと提案することなんて、本当に少なかった。だから、夫からそんな提案があった時には、私は平静を装いつつ、ものっすごく嬉しかった。夫が誰かを好きと思う気持ち、ハートがるんるんと動き、会えると嬉しいという気持ちを持っていると思うと、なんだかすごく嬉しかった。

その夕飯には、ちょうどおじさんを訪問していたおじさんの娘さんも来て、その娘さんが連れてきた、もはやどこの国の方かわからない西洋のヒッピーの彼氏(未満)の方も来て、ものすごく不思議な5人でご飯を食べた。そしてそのまま、謎の夜遊びに出かけた。あれは、一体なんだったのだろう。でも、あの中の2人は、もういない。

夫は、離れてからも、このおじさんに会いたい気持ちを持っていて、おじさんから誘いがあると、2人で電車に乗って会いにいった。おじさんの周りには、すごく良い人がたくさんいた。みんな真面目で、あったかくて、一生懸命な人。初対面が苦痛でしょうがない夫が、あんなにフットワーク軽く出かけていったのは、おじさんに会う時だけかもしれない。

体調を崩してから、夫は何かの際、おじさんにも利用されたと言った。私は、おじさんが夫をわかりやすい意味で利用したとは思っていない。でも、きっと夫は、何かうまくいかないものを感じてしまったのだと思う。おじさんが夫を利用したのならば、きっと私だって、夫を利用してしまった。でも、それは夫だっておじさんを利用したのかもしれないし、私のことだって利用したかもしれない。

夫と私の引っ越しが続いた間も、おじさんは何度も「彼はどうしていますか」「気になる存在であること、お伝えください」とメールをくれた。夫の体調不良は伝えていない。でも、夫からメールの返信がないことで、不思議に思っていただろう。

昨年の6月、おじさんからまたメールがきた。癌で余命宣告を受けたのだけど、奇跡的に手術ができることになった、また2人に会いたい、と書いていた。私は、夫がおじさんに会う時は、おじさんに成功した姿を見せられる時だと思っていた。夫は、おじさんの期待に答えたかったし、見返したくもあったと思う。だから、おじさんへの返信では、おじさんが手術ができることになって嬉しいとたくさん書いたのだけど、それでも今は会えないです、と書いた。おじさんは、どう感じただろう。夫のことも、私のこともわかってくれているおじさんだから、何か理由があるとは思ってくれただろうけど、本当はすごく会いたかったことも、感じてくれただろうか。

おじさんが亡くなったことを聞いて、真っ先に感じたのは、変な安堵感だった。「ああ、これで夫は寂しくなくなるな」と思った。子供みたいなリアクションをするおじさんは、きっと天国にひょろりと立っている夫を見て、「エェ〜〜〜〜??ナンデェーーー???」と言ったことだろう。そこから、猫背でひょこひょこと歩く夫が、同じくひょこひょこと歩くおじさんを案内して、天国でも有数のコーヒーの美味しい喫茶店に連れていったのだと思う。

今日は、会社の人たち、何人もが「訃報」とのタイトルで私におじさんのことをメールで連絡してくれた。最後にもらったメールで、ある人が「昨年11月に会ったとき、おじさんがみんみんさんに、とても会いたがっていました」と書いてくれた。

そこで、夫の死で鈍麻していた私の悲しみスイッチが入って、もうおじさんに会えないことが、一気にとても悲しくなって、ぽろぽろ涙がこぼれた。私が大好きな夫にも、大好きなおじさんにも、もう会えない。3人でたくさん話して、たくさん笑ったのに、もう私しかこの世にいないなんて。

あの子供みたいにニヤリと笑うおじさんの顔が、また見たいな。夫のことを、私のことを、あんなに可愛がってくれてありがとう。たくさん幸せな気持ちをくれて、ありがとう。

もう会えないなんて、とっても寂しいよ。

吉川ひなのと田中聖と平子理沙(敬称略)

書こうと思うことは色々あるのだけど、最近は無気力に近いかもしれない。

無気力と言っても、それは以前に比べて私の健康状態が後退したのではなくて、むしろいても立ってもいられないほど忙しかった気持ちが、けっこう落ち着いたのだと思う。そして、夫の死というものだけではない、夫と出会ってから今までの時間が頭に浮かんでは考えながら、週末はただぐったりとソファに寝転がっている。少し前までは、同じポーズでも、頭の中が雪山の吹雪だった。今は、時々春一番が吹く感じ。それ以外の時は、ぼーっとしている。側から見たら、ただパジャマを着たおばさんが寝てるという、夫が亡くなった直後と画的になんら変わらないのだけど、中身はけっこう違うのだ。

そう、でもパジャマを着たおばさんも、先週は美容院に行ってきたのだった。今回の出来栄えは、まあまあかな?もっと髪の毛明るくしたいな。今日Yahooニュースに出てた平子理沙さんのように、ピンクの髪の毛にしたい。今は、普通のOLの茶髪だけど、高校から20代後半までは明るいベージュが好きだった。20代も終わりに近づいた頃は、能年玲奈ちゃんの黒髪が可愛くて、しばらくはマネして黒髪だった。でも、夫は明るい髪色の私が好きだったようで、30代になってからは文化系なのにサーファーみたいなハイライトを入れた。ハイライト生活も数年送った後、昨年から普通のOLの茶髪になった。要は、コロコロ変わりまくっている。私の髪型に、自分というものはない。自信がない人ほど、髪型が変わるらしい。そう、私には巨大な自信の脆弱性があるのだと思う。でも、平子理沙さんだって髪型は変わるからね、人間みんな自信なんてないよね。

今回、美容院に行くのは久しぶりのお出かけだったので、数日前から当日のことを考えていた。美容師さんに、夫のことを言っちゃおうかなと思ってた。そんな話、相手は聞きたくないとわかっていたけど、自分の区切りに言いたい気持ちがむくむくと湧いた。そして当日、切り始めて5分くらいのところで、私よりも一回りくらい若いであろう吉川ひなのばりに可愛い美容師さんに言っちゃった。この美容師さんとは、普段プライベートの話は全然しないんだけど、最近どうしていたか聞かれたので、「ずっとひきこもっててね、夫が死んじゃったの。」と言った。すると、一瞬びっくりした後で、「え・・・じゃあー、今日は可愛くしちゃいましょう!」って返してくれて、なんか嬉しかった。それで、アシスタントはいつも田中聖に似た男の子がついてくれるんだけど、私のヘアカラーの時間が終わったら、バックヤードから元気に出てきて、「最高のシャンプーします!」って宣言して、シャンプーしてくれた。これも、嬉しかったな。なんとなく、美容師さんに聞いたのかなあ、なんて思った。こうやって、自分から甘えさせてもらったときに、優しくしてもらうと、励まされるんだなあ。行ってよかったし、これからも頻繁に通おうと思った。

ふう。書きたかったこと一本目。やたら芸能人の名前がたくさんでてくる回だったな。

まだまだ書きたいことあるけど、ぐうたらだから、ゆっくりいこう。

マッシュ

もうすぐ自分の誕生日なので、今週末は何かしたかった。

それで、2月くらいから、何をしようかと考えだした。

ずっと、美容院が気になっていた。昨年の10月に行ったきりなので、もう半年近い。きれいにしたところで夫に見てもらえないことは悲しいし、夫が見てくれた髪の毛を取っておきたい気もしたけど、もう伸び切って変化しているし、深く考えずにすっきりしようと思って、行ってきた。

10月に美容院に行ったとき、私は切り終えた後に夫に見てもらうことを楽しみにしていた。夫も私も苦しみのど真ん中にいたけど、私が美容院に行くことはきっと喜んでくれると思った。切り終わって夫に駅から電話したら、夫は電話の向こうで私が髪型を気に入ったことをとても喜んでくれた。翌日会った時、漫画の中のツンデレの男の子みたいに少し横を向いて照れ笑いをしながら、「すごいね」と褒めてくれた。

元の夫の褒め方は、もっともっとストレートだ。美容院から私が新しい髪型で出てくると、夫は遠くから大きく手を振った。近づいてから目をまんまるく開いて、360度出来栄えをチェックしてくれる。「横向いて見て」とか「後ろは?」と頼まれて、私は言われた通りくるくると向きを変えた。夫は、「ウ〜ン」と言いながらお宝鑑定団の鑑定師みたいに顎に手を当てて、「いいね」と言う。

一時期、私はショートカットが好きな夫のためにショートばかり続く時期があった。社会人になってからお世話になった美容師さんは、ショートの中でもマッシュが好きなようで、私が「すっきりしたショートで」とお願いしても、出来上がりがいつもマッシュになっていた。マッシュは、名前の通りキノコみたいな髪型で、可愛らしさがある。時々、それがコミカルにキノコ感が高くて、面白く思えることがあった。「切り終わったよー、でもやっぱりマッシュ感あるかも・・・」と報告する私に「今から行く!」と言って夫が駆けつけてくれた。しばらくすると、夫は表参道のあの大通りを上ってきて、私を見つけるなり、「あはははは」と嬉しそうに声を出して笑った。マッシュ頭でなんとも言えない表情の私に近づき、笑いが止まらないまま私の両肩を持って、愛おしそうに抱き寄せた。自分がちょっと間抜けな出立になって、夫に笑われているとき、すべてが滑稽で、楽しかった。もちろん散々夫に笑われた後は、私が少ししょんぼりするので、夫は次の数時間、私にいかに髪型が似合っているか、説き伏せなければいけない。そんな時間も、全部、楽しかった。それでも、機嫌を直して向き合った喫茶店では、夫の目の前にキノコが座っているので、夫はまた「くふん」と笑って、嬉しそうに私を眺めていた。

2019年から、私は新しい美容師さんのところに通うようになった。オーダーをすれば、希望通りに仕上げてもらえるようになった。だから、最後に夫に見てもらった10月も、私は思った通りの可愛い髪型にしてもらった。夫は私を見て、「大学生のときみたい。これまでは、こうはならなかったよね」と褒めてくれた。それは、これまでは、どの髪型をオーダーしても、マッシュだったから。

今の美容師さんの所にはこれからも通おうと思う。でも、夫が亡くなる前に、もう一度マッシュの私で現れてみたかった。そうしたら、夫は笑ってくれたのかな。ちょっとかわいそうになって、抱き寄せてくれたのかな。それだったら、私一生マッシュでもよかったのになと思う。

プレゼントから考える

とうとう4月になってしまった。

年明けから、4月になることがずっと怖かった。

4月は、私の誕生日。

夫に毎年、ものすごく大切に祝ってもらっていた日。誕生日当日は大学の授業だったり仕事があるので、夜だけ会って、外食してお祝い。週末には、もっと盛大にお祝いした。盛大といっても、それは私と夫の気持ちのこと。夫は私に、「今日はみんみん、バースデーガールだもんね!」と言って、私が喜ぶ食べ物とか、行きたい場所とかを考えて、全力でお祝いしてくれた。

夫がくれるプレゼントには、毎年心がキュッと締め付けられた。私は夫の誕生日には、夫に事前に欲しいものを聞いて、その中から選んだものをあげることが多かった。プレゼントは、ほぼ毎年上着だった気がする。夫は、年ごとに、いろんなものをくれた。まるで私がその時必要としているものをすっと差し入れるかのように、その年齢やタイミングで私にふさわしいものを、心を込めて選んでくれた。それはカーディガンのこともあれば、スカートのこともあったし、ネックレスや、パジャマのこともあった。夫からのプレゼントを開けるたび、私は驚いて、感動もした。「一体どれほど歩き回れば、こんなに私が喜ぶものを見つけられるんだろう?」と思った。夫がくれるものは、それほどに可愛くて、初めて見るのに、「ああ、私はこれが欲しかったんだ」とすとんと腑に落ちるものばかり。私自身も気づいていない、心を読まれているような気持ちにいつもなった。

実はプレゼント選びは難しい。これまでの人生で、誕生日にもらったまま着ない服など、たくさんあった。夫はなぜあんなにプレゼント選びが上手だったのだろう。夫は、押し付けじゃないから。私のことを、よーく見てくれているから。自分が相手にあげたいものじゃなくて、相手が欲しいものはなんだろう、というところから発想してくれているから。だから、あんなに気持ちに寄り添うプレゼントが選べるのだろうなと思う。本当に、申し訳なくなるほどに、優しくて、優しくて、優しい。私は、その100ある優しさに、100の感謝を伝えられたのだろうか。こんなにも嬉しかったと、表現できていただろうか。

もう一つ夫がくれたプレゼントを思い浮かべて、考えることがある。私は普段から、洋服が好きで、いろんなものを着ている(つもり)。自他共に認めるところでは、クラシカルな雰囲気の服も似合うし、パステルカラーなどのちょっと派手なストリートカジュアルもまあまあ似合う。自分で買う洋服は、このどちらかが多い。夫もまた、クラシカルな洋服が似合うのだけど、ストリートカジュアルは似合わなかった。何かが、合わなかった。それで、「みんみん、よく似合うよねえ、いいなあ」とよく言われていた。

でも、夫が私にプレゼントしてくれる洋服は、悪びれたストリートカジュアルのことはなかった。夫がくれるものは、いつだってクラシカルな雰囲気のものだった。角がなくて、ふんわり、優しい服。着ていると心がまっすぐ綺麗になるような服。気張ったり、何かに浸ることもなく、まったく無理がない自然体の、それでいて、可愛らしさのある服。くれたアクセサリーだって、まったく毒気がない。ほそーいネックレスに、小っちゃなピンクの花のプレートが付いた、AHKAHの可愛いもの。可憐なんだけど、嫌味がなくて、色気もなくて、どこまでも、可愛い。そして、小さい(笑)

私は、そんなプレゼントをくれる夫が、大好き。

そういうものを私にくれたことが、とても嬉しい。

夫がくれたものを見ていると、これからもまっとうに生きなきゃいけないと思う。

夫が亡くなってから、夫を失望させた、見限られてしまったと思うことが多い。これは、思い当たるところもあって、自分が未熟なのに背伸びをしたり、イキがったりして、本当に情けなく、恥ずかしく、その時の自分が、嫌だ。でもそのことは撤回もできないし、なかったことにできない。自分で悔いるしかできない。そして、許されるならば、昔、夫が期待してくれた自分像にもう一度近づけるよう、頑張らないといけない。そう思えるようにならねばと、まだ自分に言い聞かせている。