優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

どうしようもない人

ここ数日、過去に夫とやりとりしたメールを見て、心がかき乱されていた。

そのメールは、夫と私が交際8年目くらいで、いよいよ結婚しようかという時期のもの。夫が私と結婚するには、説得をしなければならない人がいて、この人物の分析から、対処法と、想定問答までが、合計3通にも亘って書かれていた。

私はまだ見ぬその人を思い浮かべて、「それにしても、どうしようもない人物だな」とその時思った。それでも、どうしようもない中に、きっと良いところもたくさんある人なのだろうと思っていた。

この人物は、人生の全ての意味を夫に託して生きていた。夫が誕生から今まで負わされた役割は、この人の不安を拭い、願望を満たし、理想の息子であり続けることだった。どうしても難しいとき、夫が少しでもこの人の意に逆らえば、この人は途端に家の中で叫び、ものを投げたり、包丁を持ち出したり、今すぐこの部屋から飛び降りてやると夫を脅したりした。口論の中で夫が何かを言いよどめば、矢継ぎ早に質問を続け、答えられないと「それみたことか」と優位を見せつけた。夫が稀に優勢になれてしまったとき、この人はヒステリーを起こし、夫を叩き、「私は病気やねんで」と言って泣き落としに入った。だから、この人は決して論破してはいけない。真実を伝えてはいけない。うまくやらなければいけない。これまでだって、常に本音を隠して、その期待に沿うことで耐えてきた。でも、この人も、本来悪いひとではないんだ。仮にみんみんに何かひどいことを言ったとしても、決してそれを、本心から言っているわけではないんだ。そんなことが書かれたメールだった。そして、メールの結びとして、夫の結論は、だから、結婚してもこの人が不安にならないよう、2人から愛情と優しさを示して行こう。定期的な連絡や帰省などをしよう、ということだった。もちろん、当時の私も、夫と同じ考えだった。

こんなメールから何年も経った後の昨年2月末。この頃、体調を崩した夫と私の間では、日々戦いのような衝突が起こっていた。お互い確かに愛しているのに、わかりあえない。信じているのに、脅威を感じて、攻撃しあう。そんな、説明のつけようもない日々だった。でも、ある晩私は、夫に謝ったことがあった。「わたし一つ自分が間違ってたと思って。今まで愛情史上主義で、夫くんがあの人たちと連絡したくないのに、メールとかスカイプさせちゃったかなと。それによって夫くんが彼らの愚痴言うスペースも奪っちゃったかな」と。これに対し夫は、少し戸惑いつつ、「みんみんが自分の家族とそういうことする風習を自分にも当てはめられた。でも、難しいよね」と返した。

この「でも、難しいよね」とは、夫の配慮の言葉だ。「でも、それを一方的に非難できるわけでもないし、みんみんがそれに価値をおくのもわかるし、難しいよね」、そんなトーンである。そう、とても苦しいときでさえ、夫はこういう一言を必ずつけてくれた。必ず、私の逃げ場があるように。

それでも、ずっと私はこの時話した通りの後悔を持っていた。それが、ここ数日、上に書いたメールを読み返して、少し記憶を更新することができた。なんだ、夫と私は、最初にそう約束していたんじゃないか。実家と頻繁に連絡したり、帰省しよう、と。それが関係を良く平和的に維持する秘訣になると。私ばかりが、夫の気持ちも考えず、べき論や正論で何かを押し付けていたわけでは、ないはずなんだ。でも、当然ながら夫だって、なにも間違っていない。夫がこの当初の約束のように動けなくなっている状況に、私だって気付くべきだった。大体、夫がこんな思いをさせられている元凶はあちらにある。私は、丸くおさめるよりも、そのことを夫に言ってあげるべきだったのではないか。こんなに夫ばかり我慢する必要ない、と。

先のメールによれば、夫はこの人から「いつか相手に見捨てられて、離婚されたらどうするの」と私と結婚する前から頻繁に聞かれていると書いてあった。確かに、夫が亡くなる直前、この人は稀に上京して夫に会うと、「あんた離婚問題、どうなった〜?」と夫に聞いていた。この人が「離婚」と口にするとき、いつも口元がうすら笑いを浮かべていた。私に対しても、この人は何度も「離婚」という言葉を言った。何度も繰り返し言われたあのイントネーションが私の耳にもこびりついている。笑った口元が目に浮かび、恐ろしいような気持ちになる。

この人は、夫が描いていた夢についても、「絶対に叶うわけない」と決め付けていた。それでも夫は、夢だけは譲れないと思い、きっと生まれて初めてこの人を論破して、夢に向かうことを選んだ。でも、交換条件でタイムリミットを設定してしまった。この人に決められたタイムリミットが近づき、夫は追い詰められた。「それみたことか」の、あの表情が浮かんだのだろう。

夫は亡くなったとき、33歳だった。昔、「10年後くらいにお父さんと上京して、一緒に住もう」と言われていた夫は、「その時僕は34歳になっているわけで、これは破滅的な考えだ」と私に嘆いていた。

夫がこの世で34歳になることは、ない。だから、夫はこれを完全に阻止した。それだけは、よかった。私とだって、離婚なんてしていない。これだって、言いなりになんてなっていない。よかった。

夫の良心につけ込み、自分よりも夫が幸せになっていくことを祝福しなかったあの人に、それなのに自分が夫から愛されていると信じてやまないあの人に、夫のこのメールを送りたくて、送りたくて、しょうがない。夫がこれほどに苦しみ、もがき、それでも尚、愛情を絞り出していたことを、伝えてやりたい。

心の中ではもう送信ボタンを押したのだけど、現実にはまだ何も動かず、夫のメールは私の受信ボックスに眠ったまま。

私宛ての小包

今日、部屋で仕事をしていると、昼過ぎにドアの外から父に声をかけられた。

「みんみん、郵便物届いてるよ」と。

私宛の郵便物なんて、夫の死亡関連とか、クレジットカードの請求書とか、行政関連の封書だろうと思ってドアを開けたら、父の手には私宛の小包があった。誰からだろうと思って差出人を見ると、私の親友からだった。

私は自分の仲の良いほんの一部の人、具体的には5人だけに、夫が亡くなったことを伝えている。最初は、この友人たちにもすぐ会えると思っていたけど、一向に自分が元気になる様子がなく、その機会は延期され続けている。「もう少ししたら元気でると思うから!そしたら又会ってやって!」とLINEやらiMessageやらで言い残して、私は彼らから姿をくらましたままだ。完全ひきこもりライフと思いきや、近所のコンビニやスーパーに行くことはたまにあるのだけど、それも2週に1度程度だろうか。それで、「そろそろ友達にも会いたいな!」と時々思うのだけど、その一歩が踏み出せない。きっと少しはその日に近づいているのだけど、会って話したいことだらけなのに、何から話せばいいかわからないし、話したところで気を遣わせてしまうかなとか、自分が泣きまくって止まらなかったらどうしようとか、色々思う。全て私が思いつかないような寛大さで受け止めてくれる友人たちだとわかっているのに、こんな状態だ。

友人たちにしてみれば、きっとどうしたら良いかわからないと思うのだけど、そんな状況下での、この小包だ。私は自分の友人たちがとてもとても好きなのだけど、今日もまた感動してしまった。こんな温かい気持ちを持った友人がいることを有り難く思った。なんて優しいのだろう、と。

小包を開けながら、夫のことを思った。夫が抱える苦悩の中で、一番はっきり話してくれたことが、「ものすごく孤独。僕にはみんみんしかいない」という言葉だった。何度考えても、少なくとも私という人間がいたのに、こんな思いをさせてしまったのは、私の力不足だったのだと、つくづく思う。しかも、この発言を聞いた時には、「そうか、他の人とのつながりを生めたら良いのかな」と思った。それも大いにあるのだけど、私が何よりも早くできたことは、仕事も人生も100点満点目指して頑張るのではなく、たった一人の夫のために、もっともっと、気持ちも時間も生きる意味も、このとき全てを、夫に注ぐことだったのだと思う。そうすることで、きっと夫に一人じゃないと気付いてもらうことができたのではないか。そうすることで、夫の苦しみの再燃を防げたのではないかと思っている。

今日は、これに加えてもう一つ思ったことがあった。夫にも、こんな優しい友人がいればよかったな、と思った。夫が苦しい時に苦しいと打ち明けられる友人。夫が音信不通になると、自ら駆け寄ってくれる友人。夫が私と交際する中で、どんどん友人関係も疎遠になっていったように思う。そして、疎遠になるに連れて、弱音も吐けない関係性になっていたのではないか。夫は、きっと小包を受け取った私を見て、「みんみん、よかったね。みんみんのお友達は、とっても優しいね」って喜んでくれたんじゃないかな。小包を開けるとき、ふと夫の遺影を見たら、今までで一番くらいに、夫の笑顔がいきいきして見えて、しばらく見つめてしまった。

小包を開けると、中には素敵なパッケージのコーヒーが入っていた。私がとてもコーヒーが好きなことを知って選んでくれたんだって。製造元のお店の名前が、偶然にも姪っ子と同じ名前だった。そこから夫と姪っ子のことを思い出した。

姪っ子は、私にもとてもなついてくれたけど、誰より夫のことは、とても好きだったように思う。まだ会話もたどたどしい頃から、夫のことを「夫くん!」と呼んで遊んでもらうことが多かった。私の姉夫婦も両親もいるときに、姪っ子が真っ先に甘える相手に選ぶのは夫だった。本棚から絵本を取り出して、よたよたと夫のところまで持っていき、「私をあなたの膝に乗せてこの絵本を読み聞かせて」と言わんばかりに、夫の膝下で頬を赤くして待っていた。その姪っ子の萌〜な姿と、夫くんのなされるがまま感が、私はとてもおかしく、愛おしく、「あははは、夫くんめちゃくちゃ気に入られてるー!」と喜んでいた。きっと私は、姪っ子が可愛いだけでなく、姪っ子が夫くんのことをかっこいいお兄さん認定してくれるのが、とっても嬉しかった。

でも、この日、姪っ子たちと別れた後に夫に言われたことにびっくりした。「みんみん、あんなに姪っ子が僕のことを好きだなんて言わないでよ。きっと〇〇くん(義理のお兄さん)は嫌だったと思うよ」と言われた。

それ以降姪っ子に会うと、夫はなんとなく警戒した表情をしていて、あまり姪っ子に近寄られないようにしていた。今考えれば、確かに夫のいう通りなのかもしれない。義兄はものすごく穏やかな羊のような人で、腹を立てたりなんかはしていない。姉に聞いたときにも、「そんなこと気にしてないと思うよ」と言われた。でも、確かに義兄は娘をとてもとても、溺愛している。きっと夫くんは、敏感に何かを感じ取ったのだと思う。あのとき義兄が、どこか寂しいような顔をしていることに、気づいたのだと思う。

コーヒーのパッケージに書かれた姪っ子の名前を見ながら、このことを思い出して、また私の思考はふっと当時に飛んでいった。夫くんの気遣いとか、優しさとか、謙虚なところに、涙してしまった。私が同じ立場だったら、きっと素直に喜んでしまうだろうな。ましてや、自分の夫がそのことを褒めて喜んでくれていたら、きっとそれ以上深く考えることはないと思う。

夫は、本当に人の気持ちによく気づく人だったな。

自分が喜ぶ前に、他の人に遠慮する人だったな。

私はそんな夫のために、どう変われたのかな。どうしたら、役に立てたんだろう。

ホワイトデー

夫のことを考える時間を減らすと、夫のことを思い出すことが難しくなってくる。思い出すことが難しくなると、なんとなく日常的には感情移入がされなくなって、私の中の夫くんワールドに蓋がされて、ただ「夫は死んだ」とだけ思う。ただの文字列。ただのファクト。

昨日の命日のように夫のことを1日かけて考える時間をもつと、日頃私が蓋をしている夫くんワールドが開いて、翌日の今日になっても、私はその夫くんが詰まったポットみたいな世界の中にいる。ポットの中は、あたたかい金色の光に包まれた世界で、夫くんの声とか、表情とか、仕草とか、そんなもので満ち溢れている。私は、夫くんの柔らかで優しい動作をたくさん思い出す。現実世界で視界に入っている目の前のものはあまり関係なくて、ただ頭の中で夫の姿ばかり思い出す。一体どこから声出てんのかな、と思うような夫くんのあのアルファー波だらけの声が、頭の中で流れる。人間に記憶があってよかった。空想があってよかった。こんなむかしむかしに聞いた声を呼びおこせてよかった。思い出したいと思ったときに、本人はいないのにこんなに思い出せるなんて、人はなんという特殊技能を持ったのだろう。

こんな状態のまま週明けを迎えたので、今日はとてもたくさん泣いた。さすがに月曜はまずいだろうということで、今、夜の0時も過ぎて、ポットのへりまでよじ登った。ぜえぜえ言いながら、片足ひっかけて休んでいるところ。ポットの中にいる間も、突然苦しい思いはやってくる。夫くんを思い出して幸せに浸っているときは良いのだけど、ふとこの愛しい夫がもういないことを考えると、途端に頭が絶望でいっぱいになる。絶望すると、家の窓とその下のコンクリを思い出す。そういう思考回路になっては、いけない。なぜいけないかわからないけど、とにかくいけないらしいんだ。だから、絶望の一歩手前で、わんさか泣いてしまうのが得策だ。

昨日はホワイトデーだった。

2019年のホワイトデーは、それはそれは幸せなものだった。前に、このブログでも書いたことがある:

thoughtsincircles.hatenablog.com

この1年後、2020年のホワイトデー。夫と私は絶賛大カオスの渦中にいたのだけど、実はこの日だけは、奇跡が起こった。ずっと果てしないほどの衝突をしていた夫と私の間で、デートに行く事ができたのだ。その日は確か休みで(カレンダーを確認したら、土曜日だった)、日中、私は夫と真剣な会話をしていた。いかに我々がピンチにあるか、もうこの社宅のみんなに噂され、非難されているということを、私はあの手この手で訴えていた。もう疲れ果てるほどに話し合った後で、私は夫に「夕飯一緒に食べに行く?」と誘った。絶対に断られると思ったのに、夫は、「行こうか」と言ってくれた。それで、前に2人が住んでいた大好きな街にバスで向かって、串カツと、大好きなお寿司と、焼き鳥やさんをハシゴした。

この頃、ずっと食事なんて一緒に取れてなかったし、ましてや気分よく話してもらえることなんてほとんどなかったのに、夫はこの日の夜、とっても優しかった。

寿司屋のカウンターに2人で座ると、夫くんが私の食べたいものを頼みなよと気遣ってくれる。私がつぶ貝が好きだから、この日も食べるように言ってくれた。普段は大人しい夫くんが、お寿司屋さんでは勇気を出して、2人分を注文してくれる。本当の夫は、こんなにこんなに優しいんだ。会話の中で、「ちょっと前、みんみんこんな話してたけど、あれなんだったの?」と正月明けに私が外食先でさんざんな目にあったどうでもいい話をまた聞いてくれたりした。夫はこの日、過去半年見たことがないほどに、穏やかで、本来の夫だった。私は寿司を食べながらウルウルと涙がこみあげた。嬉しくて、嬉しくて、信じられなくて、これは夢なんじゃないかと思って、自分のほっぺをつねった。本当にほっぺをつねったのなんて、一生であの一回だけだと思う。だから、この日の日記では、「幸せなホワイトデーになった」と書いている。

闘病の真っ只中でさえ、この日には魔法みたいなことが起こってた。ということは、私は夫と出会って、最初から、最後まで、全てのホワイトデーを幸せに過ごしたんだ。

でも昨日だって、決して不幸ではなかったんだよ。夫は目に見えなかったけど、ああやって写真の夫と一緒に、おいしいピザを食べられたことが、2021年のホワイトデーの、ちょっとした幸せだった。いないことでこんなに苦しくなるほど素敵な人に出会えたんだ。そんなことを思いながら、たくさんのピザを噛みしめたホワイトデーだったな。

命日Pizza

夫が亡くなってから、4ヶ月経った。

4ヶ月前までは、あの大切なひとが、この地球にいたんだ。

4ヶ月前のあの朝、私が少しでも夫の気持ちに思いを馳せることができたなら。夫がどれだけ苦しんで、追い詰められているか、考えることができたなら。他のどんな人や物や事がどうなろうと、私は全ての意地と悔しさを捨てて、全速力で夫に駆け寄って、両腕を開いてしがみついただろう。死に向かおうとする夫を全力で止めただろう。もし振り切られても、間違いなく諦めずに縋っただろう。きっとそのまま一緒に死んでいただろう。それほど、夫一人が死ぬなんてことは、許されないことなのに。そんなこと、絶対に起こさせないはずだったのに。

毎日このことばかり考えていると、生きられないほどに苦しく、つらい。でも、月に何度かは、それかせめてこうして命日には、このことを考えたい。自分にどれほどのチャンスが与えられていて、いくつもの機会があって、あふれるほどのサインを夫に送ってもらっていたのに、私が踏み出す一歩を間違えてしまったということ。その後悔。その詫びても何にもならないほどの過ち。写真の中の夫が私に優しく笑いかければかけるほど、この人の力になれなかったことを悔やみ続ける。そして、私自身が夫という人生の相棒を、私にとって奇跡みたいな人を、失ってしまった。だれも、だーれも、ひとつも幸せになんてなってない。

今日はふと思い立って、夫のために1日過ごそうと思った。普段は気休めに死別ブログを読んだり掲示板を読んだりネット記事を読んだり賃貸探したり自分にばかり時間を使っているのだけど、今日は夫が亡くなって初めて、夫の写真の周りにお花を飾ろうと思った。それで、庭に椿が咲いてるのだけど、中でもうすーいピンク色と真っ赤なものがとても可愛いので、それをいくつか、咲いてるものや蕾のものを切って、オブジェで置いていた2本のCoca-Colaのビンに挿した。ついでなので、おじいちゃんの仏壇にもほしいかなと思っておばあちゃんに聞いたら、「椿は花が丸ごと落ちるのが首が落ちるみたいだから、仏壇にはあげないんだよ」と言われた。「でも、もう首落ちてるじゃん」と私は返したのだけど、おばあちゃんは耳が悪いので、「ええ?」と聞き返され、もう一度、「もう首落ちてる!」と言ったけど、また聞き返され、最後は「もう死んでるからあーーー!!意味ないよねぇーーーー????」とでかい声で叫んだ。「うん、いいんじゃない」とクールに返されて、私もふうむと思って、夫の椿はそのままにした。でも、お花を写真の周りに飾りながら、花弁とか葉っぱが写真の夫のほっぺに当たったりして、「僕こういうの苦手ェ〜」って言ってそうだなと思った。思わず声に出して「虫いないから大丈夫!」って写真に語りかけちゃったよ。夫くん、お花関心ないもんね。私もほぼないけど。夫に花束もらったことって一度もなかったな!やっぱり、二人とも虫が嫌いなのだと思う。そして虫がいそうなお花は苦手なのだと思う。

夫の写真周りが充実したところで、キャンドルを灯して、オザケンの音楽もかけて、ピザを注文した。夫と一緒に貯めていたGoTo Eatキャンペーンのポイントがあって、それを使って夫が好きなものを食べようかなと思って調べたのだけど、よくよく調べたらデリバリーはポイントの対象外とのこと。それでもなんとなくピザなら夫くんが一緒に食べてくれる気がして、Pizza-Laの豪華な4種ピザを頼んでみた。そして炭酸飲もうかなと思ったけど、コーヒーも飲みたいなと思って、ホットコーヒーとピザを並べて、自分の部屋で夫の写真を見ながら食べた。それにしても、びっくりした。ピザがこれでもかというほど美味しかった!せいぜい食べて2枚程度かなと思ったけど、4枚も食べてしまった。食べながら、美味しいよ、ねぇおいしいね、って写真に言いながら、涙がぼろぼろ落ちた。ピザは美味しいし、涙は止まらないし、オイリーな食事にコーヒーもよくあって、気持ちがあっちこっち忙しかった。4種類、どれを食べても、一口目で「ん!おいし!」って言って夫の写真を見るたびに、この顔、何度も夫に見せていたんだろうなと思って、夫は私とのこういう時間、また過ごしたいと思ってくれないのかなって、悲しくなった。2人で食べてるつもりだけど、圧倒的に1人だってわかって、なんとも、なんとも、悲しくなった。

でも、ピザがあんなに美味しかったのは、夫が魔法をかけてくれたのかな、なんて。

怒り、恨みとその昇華

夫の死について考えるとき、夫の死に関係したいろんな人のことが頭に浮かぶ。

どんな死だってそういうことはあると思う。

病死だって、事故死だって、過労死だって、自死だって、人が亡くなるということには何かしらの関係者がいる。遺された関係者たちがどれほど温かい感情を共有できるかは、きっとその人の亡くなり方によって違う。関係者の間で、素直に個人を偲べることもあれば、わだかまりが残ることもあれば、いつの日かそのわだかまりを乗り越えられることもあるだろう。

私の場合、夫の生前から、周囲の人々に大変なわだかまりを抱えていた。嵐のような日々を送る中で、夫も私もとにかく孤立していたし、ただでさえ苦しいのに、夫の病状を責められたり、説明を求められることもあった。

当時、夫と私は社宅に住んでいた。夫のことで、会社から呼び出しをされた電話は今でも忘れない。普段は仕事のやる気もない社宅担当の女性社員が、ここぞとばかりに私を責めていた。まるで夫が犯罪者であるかのように。私が彼をかくまっているかのように。パワハラを訴えたときには電話の一本もなかった人事部から、こんな電話を受けたことは、今でも私の中で会社への大いなる不信感として残っている。

でも、この経験についてはどうしようもない。立場を変えれば、病人をああやって吊し上げることの正当性を主張する人もいるのだろう。みんな、穏やかで幸せな暮らしがしたいだけ。穏やかでない住民に目くじらを立てただけ。責めることで改善させたかっただけ。私たちは、改善できないから、困っていたのに。こんな疎ましい人々がいる社宅からずっとずっと引っ越そうと思っていたのに、夫の賛同も得られなかった。

なぜ、心配する声より先に、ああいう連絡しか彼女はできなかったのか、とても悲しいことだと思う。でも、結局、「そういう人だから」という結論しかでてこない。こういうことの一つ一つが、私を追い詰め、夫を追い詰め、夫は居場所がなくなり、自宅から遠く離れた場所で亡くなった。もしずっと一緒にいられれば、あれほどに思い詰めることはなかっただろうに。こうして、私の会社と夫の死は、やっぱり切っても切れない関係に、私の中ではある。今の会社に勤め続けることを躊躇わせる。病気で苦しむ人を、責めるなんて、会社理念は偽りなのかなと思い、これに捧げる人生とは、なんなのだろうと思う。

こういう私の中で正式に雑魚認定されている少し遠い関係の人とは別に、もっと夫の治療や回復の過程に近かった人々もいる。家族とか、医療者とかだ。これらの人への気持ちは、もっと複雑だ。みんな、夫の回復を望んでいたことは間違いない。そのために思い悩んだことも間違いない。でも、どこかの段階で、みんなどうにも苦しくなって、去っていった。そんなとき夫と私は、どこまでも、どこまでも、本当にどこまでも、孤立の闇に突き落とされた。

夫が亡くなって、こういう近しい関係の人々を思い浮かべるたび、私の中に猛烈な怒りが湧くこともあれば、憎らしくて憎らしくて、藁人形でも作りたいこともある。何がこれほどに私の気持ちをどす黒くするのだろうと考えると、今の結果だけではない。むしろ、この人々の心のあり方なんだと思う。相手のあらゆる反応や発言が、保身ばかりで、誠実さに欠けるからだと思う。夫に向き合えなかったことについて、後悔してくれない。力不足であったことを認めてくれない。あのとき自分がこういう対応をすればよかったと、振り返ってくれない。でてくるのは、自分がベストを尽くしたという、聞いてもいない言葉だけなんだ。そして、「みんみんさんを尊敬しています」とか、「みんみんちゃんは後悔が多いでしょう?」とか、「みんみんさんと旦那さんに希望を感じました」とか、そういう、もう、なんとも言えない、なんの意味もない、言葉たち・・・・・・・・・・。

彼らが向き合えない理由は、わかっている。きっと、彼らは薄々気づいている。薄情なことをしたとか、逃げたとか、そういう意識は、当然あると思う。でも、彼らはそれを公然とは認めたくないのだと思う。一番痛いから。一番苦しいから。一番急所だから。少なくとも私に対しては、自分を守ることに、必死なのだと思う。とても夫の病気や生死の責任を背負うほどのことは、この人たちにはできないのだと思う。そして、私もこの人たちに正論をぶつけたところで、相手は動かないし、お互いに傷つくし、もうわかっているだろうという気もするので、ただ自分の中で、こんな悔しさにかき乱されているだけだ。

私の中で、この人たちに対する抑えがたいほどの怒りが湧き立つことは、今でも月に1回くらいある。これまでは、その度に「あの人たちに何か苦しい思いをしてほしい」とか「バチがあたってほしい」とか思っていたけど、冷静に考えれば、私が望むことは、まったくそういう因果応報みたいなことじゃない。だって、元々は夫に元気になってほしいと思っていた同士たちなのだから。夫を大切に思う気持ちが、この人たちには少なからずもあったはずなのだから。

私が望んでいるのは、いつかこの人たち1人1人が、心の中で夫と1対1で向き合うことなのだと思う。そして、向き合う中で、これまでの自分の行動を心から後悔してほしい。夫にばかりなすりつけた何かを、自分たちの方に引き取ってあげてほしい。夫は、人と人の間で亡くなったから。ずっと関係していた私たち1人1人が、もっと寄り添えれば、きっと夫は今も生きていたから。

このことに、この人たちがいつか気づいてくれることで、私のこの気持ちは救われるのだと思う。

過去数ヶ月の振り返り

今月に入ってからだろうか、落ちきった後の少しばかりの癒えが自分について感じられた。

私が負った傷は、夫が亡くなった日から開き続けていた。初日は衝撃で痛みも感じられなかった傷が、亡くなった翌日から開いて、開いて、開いて、開ききったのが、1月か2月頃だろうか。そして、3月。夫が亡くなってから4ヶ月が経とうとしている今、傷の広がりが止まり、小康状態になった。

先週あたりから、少しだけ気持ちに余裕ができた。沈んだ気持ちの時間がほとんどだけど、家族と会話する時の私の表情は、これまでより明るくなったと思うし、ふざけたり笑う時間も前よりある。以前より自分の感情がコントロール可能になってきたのもある。夫のことを考えれば止めどなく涙がでてくるけど、亡くなってから年明け頃まであったように毎時間泣いてるのとは違う。

心境の変化の理由は何だろう。一つは、夫が亡くなっているということに、慣れた。変な表現なのだけど、夫が死ぬというこの世の終わりのような出来事も、やはり4ヶ月も直面していると、当初より慣れてしまう。私は心理学に関心があって、昔勉強したことを思い出したのだけど、人は自分が置かれた境遇や環境、それは良いものも、悪いものも、すぐに慣れてしまう。するとそこが自分の中の基準点になる。

もう一つの理由は、心境の変化というより、自分の関心が「夫の気持ち」から「自分自身」にシフトしたからだと思う。夫が亡くなってからずっと、私は夫がいかに苦しんだか、悲しかったか、つらかったかを想像して、その死んでしまうほどの苦悩を体感しようとしていた。そして、それほど苦しんでいた夫に対して、私が人生で一番大切に思っていた夫に対して、私自身が力になれなかった、ならなかった、そのことの意味をずっと考えていた。そんなことを考えながらも、自分自身の精神衛生を優先して、夫の絶望に達さない自分に歯痒く、悔しく、憎らしくもなった。

夫の気持ちを考えることは、間違いなく私にとって一番苦しいことだ。どれだけ考えても、どれだけ後悔して反省しても、その続きがないからだ。未来がないということは、本当に苦しい。この世でもう一度夫に幸せになってもらう方法はないし、私が自分の言動について夫に詫びる機会をもらうこともできない。お互いを信じて止まなかった私たちが、泣いて抱きしめ合って励ましあうこともできない。全ては私の中の自問自答にしかならない。出口も終わりもない。だから、どこまでも、苦しい。それでも、ステップとして絶対に必要だと思って、ずっと私は夫の気持ちを考えることに取り組んでいた。先日の記事で「一周した」と思ったのは、このことだったのだと思う。あらゆることについて、一周考えたと。そこで、特に区切ったわけでもなかったし、またいくらでも湧き出す後悔はあれど、謎の納得感を得た。そして、今度は自分自身の今後について考えるようになったのだと思う。

自分自身の今後に目をやったとき、とにかく意味のあることを考えたり、行動を起こす気にはならなかった。ある種のストレス発散なのかもしれないけど、意外なことに、一番表面的なことに関心がいった。まずは、洋服を爆買いしたいなーと思って、通販サイトでポチポチと買い物を始めた。そして、美容院を予約した。夫が褒めてくれた髪を切るのは嫌だけど、また褒めてもらえるよう、誕生日前にきれいに整えようと思った。さらに、住まい探しを始めた。年明けに賃貸を探したときは、2人用の検索条件を1人用に変えることが苦しすぎて、リアルに吐き気がしてやめた。でも、もうそんなこと言ってられないので検索を始めた。実家は居心地が良い。でも、このままここにいたら、私はよくわからない保護下でよくわからない役割を負ってよくわからない人生を長生きしてしまうと思った。もっと生き方にしても、時間やお金の使い方にしても、わがままに、パッと、短く終わりたい。そして、もっともっと夫のことを考えたい。一人暮らしなら、ずっと独り言で夫と話していられる。実家では、家族がいない時間だけ狙って話している(笑)そして、一人暮らしをすることで、またどかーんと絶望に落ちるなら、それはそれでいいかなと思った。この自分自身を保護していることが嫌になった。

仕事をどうするかはまだ決めていない。仕事のことになると、実は夫のことを考える。夫がまだ見ていてくれるのなら、夫はきっと私にもっと頑張ってほしいと思っていると思う。間違いなく、そう思っている。夫は私のことを盲信するほどに期待してくれていて、でも私がその期待に沿えなかったときに、かなり落胆させてしまったように思う。見損なわれたのかなとも思う。私は、それを挽回したい。夫は、もっと大きく、もっとみんみんらしく、何かに一生懸命取り組んで欲しいと思ってくれていると思う。でも、もし見ていないなら。もし夫は姿、形だけでなく、心も全てが消えて、無になったのだとしたら。私は、ここで再び頑張る元気も勇気もでず、ただのうのうと今の仕事を続けてしまうかもしれない。心底意味がないと思いつつ、安定のために今の仕事に留まってしまうのかもしれない。

そんな夫任せの考え方では、私自身が逃げているだけなのだけど、もう少し夫の心がまだあるということを実感できるようになりたい、そう思えるようになったときに、仕事については考えようかなと思う。それがいつになるかは、まだわからないけど。

 

再開

改めて、日記をつけていこうかなと思う。

書く動機は、色々あるけど、やっぱり、こうして自分の気持ちを文章に書き出すことは、精神衛生上、良いことしかないと思うに至った。そして、私自身が過去の自分の記事に共感したり、慰められることもこれからあると思った。何より、夫が亡くなった日からどんどん時間が流れていく中で、未来の私からみたら、生きている夫に少しでも近いのが現在の私であって、その私が気持ちを吐露する文章は、未来の私には貴重かもしれないと思った。そして、こんな日記でも、いつか私のように大切な人を失って悩む人に、何かの参考になれば良いなと思ったり(「ああ、死別したらこんなに悲しんで潰れてて良いんだ」と思ってほしい)。変わらずこのブログを訪れてくださって、書く意味を与えてくださる皆様にも、お礼をお伝えしたい。どうもありがとうございます!

ブログの記事を突然書かなくなった理由は、実は特になくて、意図したわけでもなかった。ただ、夫が亡くなって3ヶ月経って、なんとなく自分の気持ちが一周した気がしてた。悲しみにしても、苦しさにしても、後悔にしても、大体網羅したような感覚。網羅はしたし、言葉にはしたのだけど、平気で2周目に入っていく自分の現実が、ちょっと嫌になってしまった。そして、その後何周したところで、夫がいない現実は、一生変わらない。この覆せない現実が嫌になってしまった。

夫が亡くなった直後、自分の目の前の道が断絶した感じがあった。踏み出せばブラックホールに落ちてしまうような、行き止まりの真っ黒の壁が目の前にあるような感覚だった。過去を振り返ると、私の後ろにはこれまでの日々がカーブを描いてつながっていて、暗闇の中に、過去の幸せな思い出だけが、ぽわんと明るい灯火のようにいくつも浮かんでいた(イメージはマッチ売りの少女のあの炎と思い出が浮かび上がる感じ)。

今、亡くなってから3ヶ月を過ぎて、目の前の黒い壁が開いて、先を見ることができた。壁の向こうに延びていたのは、闇の中にどこまでも長く続く、真っ暗なトンネル。今いる場所は、「夫がいなくなった時」。ここから先のトンネルは、何年も、何十年も続く「夫のいない時間」。その中で、私の悲しみと苦しさと後悔の気持ちは、今の2周どころではない、もう何周も何十周も何百周も何万周もしていく。今は、そんな未来の存在を感じている。

こんな風に、ある意味、未来に目をやれるようになったことが、ここ1ヶ月の変化だろうか。全然明るい変化ではない。でも、同時に「このままではヤバいな、耐えがたいな」という気持ちも起こった。このまま引きこもって泣きながらうなだれて一生過ごすことは、本当に病みきってしまうと思った。それくらいなら、やはり消えてしまおうかとも何度かよぎった。生きるのであれば、今のままではいられない。でも、奮い立つような気力もやっぱりない。本当は、奮い立ちたいわけでもない。

きっと、ここで落ち切ることで、また光を求めて立ち上がり、再び自分を取り戻していくプロセスがあるんだろうけど、とても、とても、そんな安易なパワポ図のようにはいきませんて。。。ということで、私は変わらず悲しみの中にいるけど、闇の空間が前より未来に向けても広がった中におります。さて、どうなることやら。。。