優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

思うようにいかない

死別直後から一生懸命書いていたブログだけど、すでに自分の中にある考えは一巡書いてしまったし、自分の近況報告をするにもあまりに変わり映えのしない地獄にいるだけなので、躊躇して書かない日々が続いていた。でも、今日は週半ばの祝日ということで相変わらずタスクもないし、久しぶりに最近の自己分析をしたくなって書いてみることにした。

前回の記事は11月の一周忌の直前。その後一周忌が過ぎ、年末が過ぎ、すでに2月も末である。まもなく死別から2回目の私の誕生日がやってきてしまう。

最近の私といえば、全く変わらない。面白いほどに変わらない。死別直後の自責地獄は減ったと思う。それは、単純に自責が苦し過ぎて、もう自分を追い詰められなくなった。その気力がなくなった。それよりは、もっと生ぬるい自責をしている。そして、悲しみも生ぬるいところで流している。1日1泣きくらいの流し気味の日々。その中途半端さも嫌で、時々夫くんがいない現実に向き合おうとするんだけど、その先には恐ろしいブラックホールがあって、ひるんでしまう。そこがしっくりハマって闇に放り込まれる生理前の1週間は、ブラックホールの住人として死神のような顔をして過ごす。その時だけ、逃げずに向き合っている感じかな。うちひしがれて苦悩と悲しみで変な声がでる。言葉にならない。

こういったものにも慣れとか順応のようなものはあるのだろう。私の場合は、死別から日が経つにつれて、もう悲しみきったし、後悔しきったし、それでも夫くんが蘇るわけではないし、もう疲れたな、という気持ちになってきた。ふと気を抜いたらこの虚しい疲労感から命を絶つんじゃないかなと自分で思うことがある。それは、毎日、いろんな街中のシチュエーションでイメトレをしているし、勝手に体が今動き出すかも、と思っている。でも、死ぬのは怖いし、痛いし、恐ろしい。そして突発的にならできるかもしれないけど、身の回りを事前に整理整頓するのは相当な気力や責任感がないと無理。誰かに「引き金引いたかな」とか「私のせいで。。。」とかあとから誤解させない方法にしたい。事故物件だって生み出したくないし、だからと言って誰にも気付かれずに死にたいかというと、ちょっと構ってほしい気持ちもある。ちょっと気にしてほしい。ちょっと心痛めてほしい。今の私の辛さを誰かにわかってほしい。でも、今の私が経験しているみたいな永久的な何かを誰かに託すほどの衝撃は生み出したくない。とても乙女心が複雑でしょう笑 本質的には自分自身の話で、私自身がふっと意識を失ってそこで人生が終われば良い。周囲には気付かれずとも本当は良い。でも、気付かれないために山奥まで行くとか無人島で逝くほどの気力は私にはない。普段でさえ大自然とか雄大な山とか海のしぶきとか怖くてあまり近づけないのに、このときだけ一人で果敢に向かうなんて無理。そこはデジタル世代なのでスマホボタンひとつで済ませたい。「お決まりですかー?」「じゃあシュンといきますねー」とかスマホの向こうで対応してもらって、そのまま消えられる。そういうお手軽さを求めている。

なんで疲れたかって、やっぱり願っているものがどう頑張っても手に入らないから。これまで頑張り屋で色々手に入れてきたから余計かもしれない。私が願っているのは夫くんと一緒に生きる幸せだったから。夫くんに関係ない幸せならいくらでも作り出せる。別に全ての扉が閉ざされたわけじゃないってしっかりわかる。でも、夫くんとはもう生きられない。そこを駄々こねたってわからずやだなという感じだけど、それが欲しいんだもの。夫くんをあんな形で苦しませて死に至らせたこと、受け入れてもいないし、諦めるなんて到底できない。そこで食い違って疲れてきた。何か自分の意識の転換とか治療でこの心境から抜け出すことも望んでない。抜け出したらもうそれは私じゃない。ただ生きることを目的とするサイボーグになってしまう。私の心に忠実であろうとすると、生きることがとても疲れる。思うようにいかない人生とは、本当に難しいな。