優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

人生悪くない

もう前回のエントリーを書いてからとても長い時間が経った。

もうそろそろ夫くんが死んだことを受け入れたかなとか、夫くんがいない人生を前向きに進んでるかなとか、誰か新しい大切な人ができたかなとか周囲に思われるほど、時間は経った。

周りの人が引くだろうから言えないし、もはや家族や友人を含めて、今連絡を取る相手は誰一人いないので伝える機会もないのだけど、私は今も毎日一人で、彼のいないことに気持ちを引き裂かれる思いで、毎日のように泣いているし、毎日ただ彼に2度と会えないこの人生を嘆いている(予想はしていたけど、しぶとさがすごいでしょう?)この世のあらゆることに関心はないし、あんなに大切だった家族も、親戚も、もう誰がどうなっても「人生とはそういうもんだ」としか思えない気がして、むしろそういった情というものに自分は振り回され続けて今まできたと思うと、誰にも構いたくなくなった。誰にも私の情を消費してほしくない。実家とももう1年以上連絡を絶っている。親友だって未読のメッセージが積み上がっている。私のいる世界は、変わり果ててしまったから、もう誰とも会いたくない。

一方で、仕事は死別以来一度も欠勤せず、高いパフォーマンスを発揮しながら、相変わらずパワハラ告発に動きの鈍い人事部を突き上げて闘っているし(今日も労基署に行ってきた)、健康診断だってすこぶる良かった。なので、私的側面は死んだも同然だけど、公的側面ではみなぎる生命力を保っていると思う。会社では飲み会だって行ってるし、ユーモアだって繰り出すし、相変わらず創造的な業務をしているし、現実逃避の場所でもある。でも、毎日会社を一歩踏み出して暗い夜道を歩き始めた瞬間、「ああ、死にたいな」と思う。これが世に言う仮面鬱というものなのだろうか。あれはまたちょっと違うか。

何をどうやっても彼が戻ってこない、このことが過去2年間自分を納得させることはなかったし、じゃあ私はこう生きよう、こんな風に生きてやる、と開き直りたいとも思えず今に至る。それは自分を卑下したり否定しているのではなくて、そういう思考になりたくないし、2020年のあの日から続けている足踏み状態を今後も続けていたいという能動的な思いでもある。そして、毎日毎日、早く死にたいって思ってる。このまま生きていると、自分が惰性の生きがいを見つけ出してしまう恐怖もある。スーパー能動的ポジティブ民の私としては、生きがいを見つけたら猛進してしまう気がするし、それを我ながら一番警戒している。ましてや、「彼以外いないと思ってたけど、本当に素晴らしい人に出会った!」と言い出しかねない自分への警戒心は最たるもので、満遍の笑みでそう言い出す自分に出会う前にすべてを閉じたい、と思う。一度生きがいを見つけてしがみつくと、彼の記憶は私の中で軽んじられて、見えない場所に蹴落とされてしまうであろうことへの嫌悪。こんなことは、自分の思考がもっとも明晰な時に思うもので、例えば明け方に目が覚めて、全身の感覚が研ぎ澄まされたときに、走馬灯のように彼との幸せな景色を思い浮かべて、その反動でこんなことを考えている。

最近は他の死別ブログを読み漁ることもないのだけど、2年以上たっても、私みたいに生ゴミのように生きている人はいるという、同じ死別の皆さまへの発信として今回の記事は書きたいなと思った(ちなみに生ゴミ表現は昔能年玲奈ちゃんがアサイチでしていたもので、とても良い表現だと思った)。安心材料として伝えたかったけど、死別直後の人は絶望するかもしれないから、まあ一人の事例ということで。でもスーパーポジティブ民は明日から「人生悪くない!」とか言い出しかねないので、本当に信用しない方がいいです。