優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

宗教観

夫は果たして、今どんな気持ちなのだろう。

魂があるとしたらの話だよ。死後の世界があればの話だよ。

こんな条件をつけないと、亡くなったはずの夫の気持ちを、私は大っぴらに想像してはいけない気がしてしまう。ちょっとみんみん、やばいんじゃないか?いよいよ危ない世界に踏み込んだんじゃないか?という指摘を恐れて。もともと自分自身がもつ偏見も相まって、「全然そういうのじゃないんだけどね!!!」みたいな枕詞をつけてしまう。自分が信じること、信じたいこと、心の支えにすることを声に出すときに、こんなに後ろめたいような気持ちになるのは、嫌だなあ。

もし自分の親が私より先に死別して、「魂」とか、「死後の世界」なんてことを言い出したら、私はきっと、冷たい言葉を言ってただろうなあ。「そんなこと言ってると、悪徳商法にかかっちゃうよ!」とか、「現実に生きないと〜」とか。今は、死別を経験した人が目の前にいたら、そのすさまじい心の痛みがわかってしまうから、とてもそんなことは言わないし、言えない。側からみてのめり込んでても、そうなる心境すらわかると思う。

今の私が誰かに軽い気持ちでそんな風に諭されたら、すっごく悲しいだろうな。軽い気持ちで諭せちゃうのは、魂とか、死後の世界というものが、それくらい非現実的で、空想の世界と思えるからなんだよね。それは、自分でも、わかる。

むかーしむかーし、宗教学を学んで、世の中にあらゆる宗教があると知った。最初はすっごく苦手で成績も最低だったんだけど、いつの間にか宗教学は私の得意科目になってた。宗教学のちびこいエースとして、先生から「みんみんさんはどう思いますか?」なんて名指しで意見を求められることもあった。でも、勉強しながら、私は宗教が世界中の争いと殺戮につながったように思えて、嫌気がさした。それで、十代の頃は宗教って、嫌い!と思っていた。でも、20代に諸外国を旅して、信仰に生きる人が美しく見えることがあった。アメリカで出会った人々で、本当の優しさを目の奥に秘めているのは、宗教を信じる人であると思った。もしかしたら、宗教を信じることが優しさにつながっていたのかもしれないし、宗教を必要とするほどの苦しみを経験した人だから、優しさを持っていたのかもしれない。それは、どちらかわからないんだけど。

そして、夫が亡くなり、私はある種これまでの思考パターンで生き辛くなった。思考と思想が路頭に迷うこととなった。そんな中で、私が一番包容力を感じたのは、宗教だった。例えば、前にも少し書いたけど、年末年始に京都の尼寺の動画を見て、「ああ、ここに行って、この尼さんたちに、私の話を聞いてほしいなあ。到着した瞬間、私はきっと安堵して、オンオン泣いてしまうだろうなあ」と思った。遺族支援をするお坊さんたちのHPを見て、「ああ、ここに連絡とってみようかなあ。単なる慰めではない、寄り添う言葉をくれるのだろうなあ」と思った。SNSで発信されてる牧師さんの言葉を読んで、なんて温かいのだろうと思った。こんなに誰かに光を灯すような言葉を発せられるのは、すごいなあと思った。同じとき、アメリカで牧師さんの自死がとても多いと読んだ。あらゆる人の苦悩を吸い込んで、どれほど大変な役割だろうかと思った。

それで、10代の頃の宗教観が、少し変わってきた。きっと、世の中にはもっともっといろんな宗教の温かい言葉があるのだろうなあと思うようになった。そういう言葉たちを蓄えて、夫を包んであげたかったなあ、なんて、結局夫に思考がつながるのだけど。つまりは、私がどれだけ考えて、夫に向けて心からの言葉を紡ぎ出そうとしても、うまくいかなかったんだ。そのことで、私は自分の無力を知ってしまったように思う。私の言葉はどれも嘘っぽくて、安っぽくて、声だってうわずって、「目的」を持っている声だった。そうではないものを、結局わたしは、ずっと自分から生み出すことができなかったなあと、ひどく情けなく思う。

宗教そのものはおそらく人を包み、生きる力を与えてくれるのだろうと、この死別と言う経験を通じて、改めてじんわり感じた。それが争いにならないよう、お互いの信条を尊重しあい、敬う気持ちが大事だから、そんな教えもすべての宗教で採用してくれたら良いよね。「絶対別の宗教の人と争わないこと!敬いあうこと!超尊敬しあうこと!」みたいな・・・・。きっと、そう言う人もたくさんたくさんいると思うけど。私が言ってる争いって、世界史の話だからね・・・・。

夫の今の心境について書くはずが、死後の世界と宗教の話になってしまった。

今日はここまで。