優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

消失とは2度目の死

自宅で仕事をしていて、ふと横を向いた瞬間に夫の写真が目に入ることがある。夫の笑顔が文字通りまぶしすぎて、すぐ目をそらしてしまうのだけど、逸らした先には、夫からもらった黒目がちのマスコットたちが所狭しと並んでいる。彼らがうるうるの目で、不安な顔をした私を見ていることに気づく。この夫とマスコットたちの合わせ技で、私はいつも現実を思い知る。一体、どれほど悲しい世界にいるんだろう、と。

半年経っても、大丈夫なわけはなくて、悲しみが薄れるわけもない。これでよかったとも、しょうがなかったとも思えるわけがない。ただ、気を紛らわすのが上手になっただけ。去年の今頃、というと、まだ夫が生きている時期にあたる。そう言えるのも、もうあと半年を切ってしまった。あの愛しい人と過ごした時間が、どんどん、どんどん、私から遠ざかっていく。何も解決せずに。何もわかりあえずに。何も挽回できず、ただ永遠に眠った夫と、私。もう、残るは私が眠りにつくだけで、そこから先は、2人とも永遠の眠りについた世界。2人が会えること、話せることは、ない。あんなに通じ合う合図とか、好きなフレーズとか、笑い合ったギャグとか、大切ないろんなことを、わかちあえることは、もうない。なんて、悲しいことなのだろうと思う。

安易に比べるものではないけど、夫は私にとって、誰よりも、この宇宙の中の誰よりも、最後の最後まで、一緒に手を取って、生きていきたい人だった。そうやって人生の最後まで一緒にいたいと思える人が、死んでしまったということ。他の誰であっても、1日や2日、連絡を取らないことはなんということはない。一週間に一度、連絡をとれば十分な人がほとんどだ。夫とは、そうではなかった。気持ちが、くっついていた。死別とは、そのくっついた気持ちを、無理やりに引き剥がしていく作業。引き剥がして、傷口はズタズタだ。2つに分かれた気持ちのうち、私の気持ちは生きている。夫の気持ちは、もう死んでしまった。私を愛しいと思ってくれた心、私を可愛いと思ってくれた心、私にみんみんは本当に良い人、本当に優しいっていってくれたあの心は、もう生命を失ってしまった。私たちはまだまだ、まだまだ、全部これからだったのに。

夫の魂が生き続けているとか、夫は見えないだけで近くにいてくれているとか、私はあんまり、思えないみたいだ。夫は、終わってしまった、消えてしまった、もう、無に還ってしまった、そんな風に最近思う。もともと、夫の死を実感できないと言っていた私だけど、今はその実感を通り越して、夫が気化してしまったような、そんな全てが終わった気持ちをよく感じる。そう思うことは残酷だし、夫の霊がもしいたら、悲しむかもしれない。でも、霊がいたらいたで、良いのだろう。ただ実感として、こうして一人でシーンと静まった部屋にいると、本当に全てが終わり、夫は消失したのだなと思う。

今、私は36歳。この後20年、30年、もっともっと年数が過ぎて、80歳とか、90歳くらいになったとき、私は一体どんな心持ちで夫の写真を見るのだろう。こんなに素晴らしい人が人生にいたことを、これからずーっと長い時間、痛みとして抱えて生きるなんて。そして写真で見る夫は、いつまでも若々しく、私の心を突き動かし続けるだろう。私がこの写真を見て、心が動かなくなるわけがない。あまりに本能を突いてくるから。いっそのこと、全部忘れてしまいたい。あんなに大好きで、大好きで、仕方ないほど好きな人がいたということを。