優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

暇なのか、怠惰なのか、虚しいのか

毎週末同じことなので、今更書き立てることでもないのだけど、今日もまたなーんにもせずに、過ごしている。元からとても面倒くさがりで、自分のために時間を使うということに意味を見いだせないタイプなのかもしれない(頼まれたり頼られると生きがいを感じるタイプ)。夫は逆に、自分のために時間をたっぷり使うことに長けていた。本を読んだり、趣味のチャンピョンズリーグの情報を収集する時間がたくさんあると、幸せなように見えた。

自分のために時間を使うことが苦手な私は、余暇があれば、ネットに充てることが多い。ネットに若干の中毒症状があるんじゃないかと思うくらい、延々とスマホを見て過ごす。これは、夫がいる頃から同じで、ただずーっとYahooに出ているニュースやゴシップを読み続けるという行為。実生活では、会社の〇〇さんとか、ご近所の△△さんとか、ぜんっぜん関心がなくて、なんなら誰のどんな個人情報も記憶しないのに、こういうトレンドニュースを追いかけ続けるのはなぜなんだろう?何の欲なんだろう?きっと、源流は同じなんだろうけど、全てゴシップ欲なのかな。。。

私がよく、布団に入ってからもスマホを見ていたので、ある日夫から、「みんみんって、いつも夜寝るときスマホで何見てるの?」ってどストレートな質問をされたことがあったっけ。「えっ、そんなまっすぐな目で聞かないでよ!!」と子供に質問されたお母さん状態だったけど、その時ももちろんネットニュースしか見ていなくて、それを改めて言葉にして伝えるのが恥ずかしくなり、「なんにも見てないよ」というなんとも言えない返事をした。いや、あきらかに見てるよ、ネットニュースを、ただただ延々と。

今はそんな、時にアジアの純真のような質問を投げかけてくれる夫もいなくなり、私はまた、日中からずーっと、ネットを見ている。見ても全然気持ちは晴れないのに、寝っ転がる時間が多いから、ついスマホに手が伸びて、そこから、ただずーっとスワイプスワイプしている。

いや、今日について言えば、正確には、ほんの少し他のこともした。朝起きたのが10時で、朝ごはんを食べて自室に戻ってきたのが11時前。そこから12時半頃まではスワイプ地獄をしていた。そこから、iPadで絵を描いた。そうだそうだ、そんな生産的な行動があった。自分を模写して、色付けとか陰影をつけたんだった。それも1時間くらいだろうか。その後、2時からはお昼の素麺をつくった。ネギとしそを庭から取ってきて、わかめのナムルと、天かすもつけて、冷やしそうめん。それもすぐ食べ終わって、3時くらいからまたスワイプ地獄。4時半まではやっただろうか。その後30分くらい、布団を畳んで、チェストのほこりをはらって、掃除機をかけた。窓を開けて換気した。17時からは、冷やしておいた355mlのGOOSE IPAの瓶ビールを飲んだ。夫と何度も生ビールを飲んだ銘柄が、近くのヨーカドーで売っていたので、飲もうと買っておいたものだ。それからお酒で気持ちが楽になるかと思いきや、やっぱり落ちてくるので、また17時半頃から19時半まで、スワイプ地獄。もちろん、1日を通じて夫を思い浮かべて涙を流す小休憩を数回挟む。そうして、私の土曜日は、今に至る。

むしろ、一人で過ごすのに他に何するの?という感じでもある。

料理だってしたし、掃除だってしたし、絵だって練習して向上心見せたし、自分にご褒美みたいなビールだって飲んだ。それでもスッカスカの隙間時間が、あまりに多い。

向上心を持とうと思って、1ヶ月ほど前に図書館から借りたカズオ・イシグロの本は、最初の数ページ読んだだけで、(貸し出し延長もしたのに)読み進める気が起こらず、返却した。何を隠そう、読書熱が高まると良いなと思って村上春樹さんの洋書も併せて借りたけど、こちらは開きもせずに返却した。図書館が、無料でよかった。

要は、私はとてつもない面倒くさがりで、ズボラなのである。本当は散歩とか、少し気分転換に出かけたい気もするけど、着替えたり、顔を洗ったり、化粧をすることがとても面倒に感じられる上に、プライドが高いので完全なるすっぴんとかボサボサすぎる頭ではやっぱり出かけたくないのだ。

結局のところ、平日に働いていれば確かにお金はもらえるし、今後も何不自由なく暮らすことができる。でも、お金を貯めて、一体どんな日々が待ち望んでいるというのか。どんなに働いて、お金を貯めても、仕事から離れればこんな1日だ。こんなどうしようもない1日を、心の中では帰ってこない人を思いながら過ごす意味は、まだまったくわからないのである。

 

消失とは2度目の死

自宅で仕事をしていて、ふと横を向いた瞬間に夫の写真が目に入ることがある。夫の笑顔が文字通りまぶしすぎて、すぐ目をそらしてしまうのだけど、逸らした先には、夫からもらった黒目がちのマスコットたちが所狭しと並んでいる。彼らがうるうるの目で、不安な顔をした私を見ていることに気づく。この夫とマスコットたちの合わせ技で、私はいつも現実を思い知る。一体、どれほど悲しい世界にいるんだろう、と。

半年経っても、大丈夫なわけはなくて、悲しみが薄れるわけもない。これでよかったとも、しょうがなかったとも思えるわけがない。ただ、気を紛らわすのが上手になっただけ。去年の今頃、というと、まだ夫が生きている時期にあたる。そう言えるのも、もうあと半年を切ってしまった。あの愛しい人と過ごした時間が、どんどん、どんどん、私から遠ざかっていく。何も解決せずに。何もわかりあえずに。何も挽回できず、ただ永遠に眠った夫と、私。もう、残るは私が眠りにつくだけで、そこから先は、2人とも永遠の眠りについた世界。2人が会えること、話せることは、ない。あんなに通じ合う合図とか、好きなフレーズとか、笑い合ったギャグとか、大切ないろんなことを、わかちあえることは、もうない。なんて、悲しいことなのだろうと思う。

安易に比べるものではないけど、夫は私にとって、誰よりも、この宇宙の中の誰よりも、最後の最後まで、一緒に手を取って、生きていきたい人だった。そうやって人生の最後まで一緒にいたいと思える人が、死んでしまったということ。他の誰であっても、1日や2日、連絡を取らないことはなんということはない。一週間に一度、連絡をとれば十分な人がほとんどだ。夫とは、そうではなかった。気持ちが、くっついていた。死別とは、そのくっついた気持ちを、無理やりに引き剥がしていく作業。引き剥がして、傷口はズタズタだ。2つに分かれた気持ちのうち、私の気持ちは生きている。夫の気持ちは、もう死んでしまった。私を愛しいと思ってくれた心、私を可愛いと思ってくれた心、私にみんみんは本当に良い人、本当に優しいっていってくれたあの心は、もう生命を失ってしまった。私たちはまだまだ、まだまだ、全部これからだったのに。

夫の魂が生き続けているとか、夫は見えないだけで近くにいてくれているとか、私はあんまり、思えないみたいだ。夫は、終わってしまった、消えてしまった、もう、無に還ってしまった、そんな風に最近思う。もともと、夫の死を実感できないと言っていた私だけど、今はその実感を通り越して、夫が気化してしまったような、そんな全てが終わった気持ちをよく感じる。そう思うことは残酷だし、夫の霊がもしいたら、悲しむかもしれない。でも、霊がいたらいたで、良いのだろう。ただ実感として、こうして一人でシーンと静まった部屋にいると、本当に全てが終わり、夫は消失したのだなと思う。

今、私は36歳。この後20年、30年、もっともっと年数が過ぎて、80歳とか、90歳くらいになったとき、私は一体どんな心持ちで夫の写真を見るのだろう。こんなに素晴らしい人が人生にいたことを、これからずーっと長い時間、痛みとして抱えて生きるなんて。そして写真で見る夫は、いつまでも若々しく、私の心を突き動かし続けるだろう。私がこの写真を見て、心が動かなくなるわけがない。あまりに本能を突いてくるから。いっそのこと、全部忘れてしまいたい。あんなに大好きで、大好きで、仕方ないほど好きな人がいたということを。

 

日光パターン

希望の物件の内見をしたのが週末で、その後申し込みをして、今週はどかーんと落ちるのかなと思っていたら、なんだか飄々と過ごしている。

夫の苦悩とか苦しみとか悲しい場面が少し自分の意識から遠のいて、夫の可愛いところとか、おちゃめなところが時折頭に浮かんでいる。亡くなった日以来ずっと、悲しみに打ちひしがれる日々が続いていたけど、ここ数日は、ちょっと気持ちが軽い。ものすごい焦りとか、ものすごい罪悪感に襲われることがない。もちろん泣く時間もあるし、ずーっと夫が亡くなっていると言う事実は頭から消えないのだけど、それでもちょっと、なにか違う。

私は大体何かちょっと勇気のいることを決めると、そのしばらく後にある「当日」の直前になって、不安になることが多い。学生のときからそれは顕著だった。直前まで夫にびーびーぶーぶーと自分がいかに不安であるか伝え続けるのだけど、夫がずっとその不安を聞いてくれて、でも特に恩着せがましいアドバイスとかはなくて、可愛い気休めしか言わなくて、私はある種の自己解決をして、当日その会場に足を踏み入れる直前まで夫にメールで「残り100m」、「50m」、「10m」、「30cm」、「行ってきマス!!」と実況中継を聞いてもらって、終わってみれば「なんか楽しかった〜⭐︎」みたいに報告することばかりだった。

その最たる事例が、学生時代に履修したある授業。その授業は別の学部の集中コースで、夏休みだけ参加すれば良かった。日光での合宿形式のそのコースを履修すると、半年の単位がもらえるもの。テーマに興味があったので申し込んでみたものの、知っている人は一人もいないし、大学中の学部から人が集まるものだったので、イケイケな人ばかりで、合宿で浮いてつらかったらどうしよう、とずっとぐずっていた。当日も他の履修者が集まる時間に行くことができず、何か理由をつけて恐る恐る夕方に合宿所に到着した。そこで会った人たちが、みんなとても優しくて、興味も同じで、私はめちゃくちゃエンジョイして大満足して合宿から帰京した。

夫にしてみれば、直前まで不安がって困っていた私に寄り添っていたのに、合宿が楽しくなると「楽し〜よ〜!」みたいに言われて、まったくみんみんはいつもお調子ものだ、と呆れていただろう。以後私のこの行動特性は夫から「日光パターン」と命名された。私が新しい一歩をマゾのように踏み出すときにうじうじぐだぐだ言っていると、「また日光パターンかもよぉ?」と励ましてくれる。ここで決して「また日光パターンのくせに」と鼻で笑わないのが夫の素晴らしいところで、本当にこうして書いていても尊敬してしまう。本当に、すごい。本当に本当に、稀有な人。

ただ、私も夫も必死になった数年前の経験では、「きっと日光パターンのはずだ」と2人で意気揚々と出発したのに、すぐに「これは日光パターンではなく、ガチできついやつだ」と発覚し、これが原因で二人は潰れてしまった。少なくとも夫は潰れ、私は自分が潰れないように、夫を利用してしまったのかもしれない。そんな自分への疑念がぐるぐると回って、恐ろしくて自分を追及できずにいる。

夫の闘病にしても、やっぱり最後は回復して笑うつもりだった。ある種の日光パターンになるはずだった。

そうして私の人生は常に、日光パターンで進んでいくはずだった。死ななければ、人生の一番最後まで、日光パターンでの挽回はありうる。夫と私であれば、お互いさえいれば幸せは感じれられたはずで、日光パターンは本来可能だったはずなんだ。でも、死んでしまったら、もう取り返しがつかない。死んでも尚、夫の分も取り返す方法を模索するのが私の人生なのか。

死んだら、終わり。死んで消えるということは、やっぱり人にとって、恐ろしいことだ。一切の存在の消失。そんなことを受け入れることは難しい。無に還る。それを受け入れることなどあるのだろうか?

夫が経験したような悲しい死は、全力で回避したかった。夫が死ななくて済むようにベストを尽くすのが私の役割だったと思うと、死なせてしまった大罪に押し潰される。もう潰されれば良いのに、私は不快なほどしらばっくれて、潰れない。せめて夫くんは私という人間から愛され続けているという痕跡を残すことしかできない。

 

進んでみる?

夫が亡くなった当日から実家に戻って、両親のお世話になりはじめて、もう半年以上が経つ。

夫と2人で孤軍奮闘していた時や、夫が死ぬという衝撃的な結末を迎えた時、自分の親への複雑な気持ちがたくさん湧いていた。なんでもっともっと、手を差し伸べてくれなかったのか、助けてくれなかったのかという気持ちでいっぱいになって、泣いたこともあった。でも、亡くなった後の今日までは、実家で受け入れてもらって、ひたすら親やおばあちゃんに感謝をするばかり。

引っ越してきてから今日まで、ほぼ毎日3食(あるいは寝過ぎてると2食)、美味しい美味しいご飯を出してもらっている。3時にはおやつとコーヒーを部屋まで届けてもらっている。たまにそのおやつがオーブンで温めたアップルパイとバニラアイスだったりすることもある。だらしなさの塊みたいになって過ごす私への指摘も余計なお世話も、なんにもない。しいて言えば、昨日みたいに暑い日にノースリーブを着ていると、おばあちゃんが「寒いから何かはおらな〜」と言ってくる程度。私がお菓子を食べまくろうと、お酒飲みまくろうと、パジャマ姿でいようと、荒れ果てた寝起きの頭で過ごそうと、親もおばあちゃんもなにも対応が変わらない(笑)これ以上恵まれた死別後の環境はないと思う。

それなのにそれなのに。

やっぱり私は、実家を出ることにした。一軒、気になったところを内見をして、しっくりきたので、申し込んでみた。あれほどどの駅にしようか迷っていたのに、結局全然知らない街にした。全然知らない街に降り立ってみたら、意外なほど気持ちが安らいだから。死別してからずっと、知ってる街に行く機会しか作ってなかった。社宅のあった街とか、学生のとき2人で過ごした街とか、新婚生活を過ごした街とか、夫が亡くなった街とか。夫の姿が、街中のそこかしこに浮かんで、どの通りの、どの場所でも、夫と歩いたり、立ち寄ったり、買い食いしたりして過ごした街だから、そりゃ爽やかな気分になんか、なりようがなかった。

今回見に行った物件は、周りに緑があって、ステキなお店もある。今の私には丁度良い、ほんのちょっと非日常感がある。こじゃれたショップとか、ベーカリーとか、カフェとか、習い事の場所もある。そして物件は、大きな窓がある。私は、物件を見る時、一番窓を見るのが好き。見つけた物件は、リビングも、お風呂にも、トイレにも、洗面所にも窓があって、合格!って思った。ここで、窓の外の空を見ながら、ぼーっと過ごしたいなあと思った。よく見ると、ちゃんと夫くん用のスペースもある。壁の一部が飾り棚みたいになってて、夫の写真を置くのにぴったりだった。ここでしばらく、一人でゆっくりゆっくり、自分に起きたいろいろなことに向き合いたいなあ、なんて思った。夫がいなくなってしまったこと、これから一人で生きていかなければならないこと。誰の何のためでもない人生になって、その中でも衣食住を整えて、仕事もしていかなければならないこと。

なんで実家を出ようと思ったかというと、こういう現実に、もう少し向き合いたいと思ったからだと思う。向き合うのが正しいこと、なんていうつもりはなくて、マゾかなと自分でも思うけど。今の実家では、ほんっとにスライムになっちゃうから、自分から背中に定規を差し込みたかったんだよね。実家にいる限り、なんでも家族のせいにできちゃうし、なんでも逃げられちゃうし、いろんなことの理由がすごく曖昧になる。一人暮らししたら、自分だけだから、責任もでて、良いかなって。

とは言いつつ、自分でも申し込むとは思ってなかったから、けっこう驚いてるし、一週間暮らしてみて、やっぱムリ!!!!!!!!!!!ってなる可能性だってある。その場合は、また実家に戻って、別宅にすれば良いかって思ってる(笑)

KAN

今日は、久しぶりに、また泣いた。

今日は、自分が可哀想になる日だった。

いつもいくらでも保身とかして、嗚呼かわいそうなわたし、って実態としては思っているんだけど。今日は、気付いたら「なんか私可哀想じゃない?!」って独り言を言っていた。

今日20時過ぎまで働いて、パソコンを閉じた瞬間、口を突いて出た言葉。

だって、こんなに大切な人が体調を崩して

こんなに大切に思ってたのにその病の一因を負って

こんなに捧げられるものは捧げたのに回復してもらえなくて

こんなに悲しい死の場面に遭遇して

亡くなって悲しいのに、単純に悲しめなくて、

悲しみと同じくらい自責もしなければずるい人間な気がして

何重の苦しみなんでしょう、これは?

自分がこの世の誰よりも可哀想と言うつもりは全然ない。むしろ自分の播いた種だから自業自得と言われたら終わり。でも、ちょっと待って、私史上、これは最も可哀想な状態。

夫くんなんて、もう死んじゃったから一番可哀想。全てにおいて、ものすごく可哀想。

でも全てが終わった夫くんと、まだ終わってなくて生きている私は違った意味で可哀想。

ある種、それは病があっても生きてる方が良いか、死んだ方が楽かっていうのとちょっと似てる。死んだ方から見ると、生きてるだけで丸儲け、となるのだけど。生きてる方からみると、死んだら楽になるの?と思う。

夫が亡くなったことは私にとっての病ではないけど、心の深すぎる傷ではある。もう心なんてぶっつぶれたかもしれない。私は今後、いくら輝いて、飛躍して、たとえこの地球のスーパースターになろうとも、夫くんを失った事実は、覆せないし、乗り越えるものでもないし、私を構成することの一部となってしまった。夫と一緒にいられたことが私の一部になっていることは、嬉しい。でも、失ったことまでも一部になってしまった。もう、こんな悲しみを背負いながら、心から「はー、幸せー」とか、「めちゃくちゃ幸せ者だな、私」とか、思うことはないのだろうな。思えるわけがないもんな。ささやかな幸せとかはあるかもしれないけど、底抜けの、なんの躊躇いもない幸せは、もう私は失ってしまったなあと思う。それは、とても悲しいことだと思う。うん、とてもとても悲しいことだ。幸せの喪失、という感覚。夫が亡くなるということで、そう決定付けられた。夫が生きていれば、闘病していようと、そういう風に思うことはなかったんじゃないかな。

可哀想ついでに、闘病中の自分の日記を読み返した。どこの大恋愛中の乙女が書いたのですか?ってくらいの純愛日記に胸を痛めた。間違いなくこの人は夫が大好きで、なにかを捧げてたよなと思った。これだけの想いを相手に持っていながら、愛が勝たなかったんだ。

もう歌詞を変えないといけない。愛は、勝たなかったよ?

 

トラウマ?

もう前回の記事を書いてから2週間近くか。

月の後半はいつも精神的に苦しい波がやってくるので、このブログに記事を書いても恨みつらみの記事になってしまう。だから書いていなかったのだと思う。

でも今回気持ちが落ちた時には、これまでと少し違うことがあった。

何かを少しだけリリースできた気がした。

私は夫が亡くなった瞬間、そのすぐ近くにいた。気付いた時にはもう遅くて、ハッと気付いて慌てて夫の姿を探した。夫を見つけたのは、私だった。夫の最も痛ましい姿をあの場所から見たのは私だけ。夫の両親は、見ようとしなかった。考えてみれば、私より先に見られたけど、私を誘導だけして、見なかった。私のあとにも見られたけど、見なかった。だから、私だけが見て、叫んだ。あの場所から絶叫した。夫の名前を。何度も。

あのシーンは、目を背けたくなるほど辛いシーンだ。今思い出しても、頭の中で自分は、違う方を向いている。両手で自分の頭をがっしりと掴み、力づくで首をひねらせないと、目を向けることができない。いつも直前の場面を思い出しては、目をそらしそうな自分にそうやって働きかけて、それに続く夫のあの姿を見ている気がする。もう十分私の目に焼きついているはずなのに、それをもっと、もっと、鮮明に記憶しようとしている。

息の根が止まった。動的なものが、すべて止まった。そんなことを思わせる場面だった。

こう書きながらも、私は核心に迫っていないし、時系列で話していないし、動揺はしないのだけど、先週くらいにはこの体験を時系列で書き出して、言語化した。

これまであれこれと夫について書いてきたけど、やはりこの場面については、気持ちにひっかかっている。あの場面を見た瞬間、これ自体に大きな意味を持たせてはいけない、と直感した。夫の苦しみには意味はあるけど、この場面そのものに意味はない。夫すらこの衝撃の画は見ていない。わたしだけ。

意味を持たせてはいけないと思いつつ、当然のことながら、ある種のPTSDとも言えるのだろうか?フラッシュバック というほどのことはないけど、忘れてはいけないと思うあまり、自分から思い出そうと足掻いたりした。それを誰にも伝えず、ただ自分の中でぐるぐるぐるぐるとやっていた。

誰にも話したくない。それは夫に申し訳ないから。聞かせる相手にも、気持ちの良いものではないから。とてもプライベートなことだから。自分の心から外に出してはいけないもの。そう思っていた。でも、6ヶ月経って、薄情な私はそれを書き出してみたことで、気持ちが新たにほぐれるのを感じた。ああ、自分はこういうものを見て、こういう体験をして、それを一人で抱えていたのだな、と思った。誰も見ていないから、共有もできないし、あまりに悲しい場面なので、家族にすら聞かれることもない。私の言葉となって、声となって、私から発出されたことはなかったから。

私は、何かを抱えて生きられる性分ではないし、抱えるということを頑張ることは難しい。抱えずに外に出すことで、少しほぐれた。ほぐさないと、この記憶は私の中で、どんどん存在が大きくなっていくようにも思う。夫くんには悪いけど、あの数秒の悪夢を、私はこれからも時折、自分から放出していくと思う。何かが振り切る前に。何か大きく黒く大変なものになって私を覆う前に。

ミルフィーユおやすみ

半年の区切りを意識したわけではないのだけど、私は昨晩からようやく祖母の部屋を出て、自分の部屋で寝るようになった。半年でようやくこの変化なのだから、ひとり暮らしにたどり着くまでどれほどのハードルがあるのだろうと気が遠くなる。きっと、一人暮らしに至る前に、実家の庭にテントを張って住む期間なんかを挟んでしまうんじゃないか。

一方で、この実家の環境は、私が身をおきたい環境とは、本当は違う。私は今、自分が今までの人生で積み上げてきたものとか、培ってきたものとか、全部、脱ぎ捨てたいような衝動に駆られている。ものすごく重たいイエティみたいな毛皮をすぽんと脱いで、身軽な姿で雪山を走って行きたい(寒くて凍るけど)。夫がくれた大切なものだけ自分のハートに閉じ込めて、それ以外のいろんなものを置いて、走りたい。その置いていくものの中には、夫との甘くて幸せすぎる思い出たちも入っている。自分の中に溢れすぎて、抱えきれなくて、押し潰されてしまいそうだから、自分の体から一度おろしたいのかもしれない。

こんなふうに、思い出やこれまでの日々を脱ぎ捨ててもなお、その内側に「私」が存在すると感じられるようになったのは、もしかしたら心境の変化なのかもしれない。亡くなった当初は、脱ぎ捨てたら中身はどろどろで形を成さないもののように思っていた。こういう心境の変化を言葉にしていることも、心境の変化かもしれない。ずっと、変化そのものが、あまりに苦痛だった。認めたくなかった。全てが変わっていくことをどうにか阻止することに必死だった。あっちこっちに散らばっていく星屑を集めては、パラパラと崩れる星の粒で、また一つの星を作ろうとしていた。もう手に入らないとわかっているのに。無理だとわかっているのに、ただひたすら、それに取り組んでいた。

祖母の部屋から自分の部屋に移ったので、改めて寝具を出そうと思い、社宅から運んできた夫の掛け布団と枕とシーツを出した。少しだけ、夫の香りがする。この中で眠ったら、どんな気持ちになるのだろう。一晩悲しくて眠れないのだろうかと思ったけど、そのうち匂いに慣れて、感情もこみあげなくなった。

夜、暗闇の中でランプだけつけて、手元の夫の遺影を眺めてた。前にこの部屋で寝た時は、夫が実家に来てこの部屋で2人で寝た時だっただろうか。それとも、まだ結婚前で、私が実家暮らしのときだろうか。もう13年も前の夫の遺影を眺めながら、私の中で夫はこの時から、なんにも変わってないなと思った。でも、まさかこんなに悲しい気持ちで、こんな状況になってこの部屋で夜を過ごす日がくると思わなかった。

ランプを消して、布団に寝転がって天井を見ると、昔夫と毎晩していた電話を思い出した。元々、夫が早寝早起きで、私が遅寝遅起きだったのに、社会人になったら私の方が強制的に早寝早起きになり、平日寝るのはいつも私が先だった。就寝時間の少し前に、「もう寝るよん」と夫にメールして、電話をつなぐ。最初は私が、その日の夕飯を食べてから寝るまでにあった事をペラペラと話すのだけど、一通り話し終えると、急に私を眠気が襲ってくる。そのあたりから、夫が話し出す。夫の声は、ものっすごいアルファー波がでていて、催眠術のような魔力を持っている。私は夫の話を聴きながら、意識が飛び飛びになる。夫はそれに気付いて、「もうみんみん寝ちゃうかな〜?」と声をかけてくれる。そこから電話を切るまでに、夫が心をこめておやすみを伝えてくれる。

夫)「みんみん、おやすみ〜」

み)「おやすみ〜」

夫)「うん、おやすみ〜」

み)「おやすみ〜」

夫)「んっ?大丈夫かな?おやすみ〜」

み)「おやすみ〜」

夫)「もう切るよ〜おやすみ〜」

み)「おやすみ〜」

夫)「切るね〜おやすみ〜」

み)「・・・」

夫)「うんっ、おやすみ〜」

夫)「みんみん、おやすみ〜」

夫)「よいしょっと・・・おやすみ〜」

夫)「おやすみ〜」

夫は、眠りにつく私にですら、どこまでも丁寧で、優しくて、大丈夫か気にしてくれて、通信網にテアニンを乗せるような声で、私におやすみと伝えてくれた。私はこれを「ミルフィーユおやすみ」と名付けて、毎晩夫のミルフィーユおやすみがとっても楽しみだった。時に、ミルフィーユの層が笑っちゃうほどに多いことがあって、そんな時は途中で眠くなっていた私もさすがに「やりすぎだろ!!」とおかしくなって、目が覚めて笑いはじめることがあった。そんなときは、また寝かしつけからやり直しになって、結局は最後にミルフィーユが繰り返される。

昨日の晩は、夫の香りを布団に感じながら、こんな香りなんていらないから、あの夫からの電話がほしいなあ、と思いながら目を閉じた。