優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

適材適所の直感

今晩やってたクローズアップ現代に触発されて、自分がこれから人生で取り組みたいことについて考えていた。

正面きってそういうことを考えることは、まだ自分に許せていないけど、私がこれからも生きることを選ぶのであれば、やっぱり私は私自身に、何かの役割を託したがる。

そんなことは、別に死別者全員が背負うものではないと思う。ただ、個々人の性質に応じて、自分が生き延びながら生きる意義を感じる行動を、探す作業なんだと思う。ただ故人のことをずっと思い続けることが、一番、一番、大変なこと。苦しいこと。残された側からすると、自分が一番すべきことにも思える。

でも、私はもっとずるくて弱い。開き直ってはダメなんだけど、ただ背負ったまま生きるくらいなら、生きたくない。夫は、こんなことを言う私をどう思うかな。夫が私に辛辣な言葉を投げることは想像できないけど、今は喜びはしないかもな。きっと今は、未来に向かって歩み出す私なんて、応援できないんじゃないのかな。まあ、私だって当面、引きこもっているつもりだけど。わかりやすく言えば、絶賛喪中下にある。喪が明けたかどうかは、私が決める。今のところ、喪明けがいつになるかは、私にも想像がつかない。

こんなことを言っていながらも、やっぱり同じ労働をするくらいなら今の会社は離れたくて、何か私や夫と同じような経験をする人々が救われるための制度構築ができないかと考えている。実は、数週間前に、放送大学の入学資料を取り寄せて、せめて心理学のいろはくらい学ぼうかなと思ったのだけど、夫と自分のことを振り返って、それが次のステップに必要なのか、自問自答している。

私は、夫の苦悩に寄り添えなかった人だ。きっと、人の苦しみとか悲しみに寄り添うことは、本当に向いていない。人の気持ちを想像するために必要な柔らかさみたいなものは持ち合わせているのだけど、生来の苦悩とか、生い立ちからくる苦しみの実体験が、やはり欠けているように思う。今や夫の死という実体験を持ったものの、それでもまだ何か足りないものを感じる。それが私の関心分野に必要なのかわからないものの、なんとなく、どことなく、この分野との不一致を感じる。

それより、私はやっぱりそういったことに必要な制度構築とか、渉外とか、そういう分野なのかなと思う。適材適所という意味では、その直感を信じた方がいいのだろうか。

まだなーんにも始動していないのだけど、自分というコマをこのおぼろげなプランの中でどこにあてはめるのか、今日はクロ現を見ながら、放送大学の入学案内の封をようやく開けて、ぼんやり考えていた。

考える時間はまだたっぷりあるし、入学して卒業してもまだ考えているかもしれないし、とりあえず、喪中ながら動いてみようかな。多分、まだ動かないけど。

ただちょっとだけ、今居る場所から数メートルだけ、明るくしているような作業。

踏み出せば地雷がある

職場にインターンが来ている。

その着任の自己紹介プレゼンがあるということで、こういう集まりから存在を消していたけど、今日は私も出ることにした。

発表を聞きながら、昔の自分にどこまでも重ねてしまった。

出身大学にしても、学生時代の活動にしても、同じ仕事に関心を持っているだけあって、学生時代の私と、たくさん共通点がある。関心のある社会問題だって、やったことのあるボランティア活動だって、同じ。同じNPOに行って、同じようなグッズ販売のイベントを大学で開いていた。発表プレゼンの中で、そのNPOが販売している手作りのカードが映った。あのカードを、私も大学のイベントで販売した。イベントに顔を出してくれた夫が、そのカードを買って、買ったカードに優しいメッセージを書いて、クリスマスに、私にくれた。

夫は、私のこういう活動には関心なんてなかったけど、頑張っていることをいつも応援してくれたな。いつも見知らぬ人のふりをしてイベントにふらふらやってきて、浮いた出立でイベント会場を一周して、全然買わなさそうなのにグッズをちまちま選んで買って、会場の離れた場所にいる私にちょっとひょうきんな目配せをしてから、ひょこひょこと去っていった。すごーく、変なひと。追いかけて捕まえてきゃはははと笑いたいくらい、私はあの夫の姿が好き。夫が大切に残していたノートの中に、そのイベントで買ってくれたしおりが挟まれていて、遺品整理でそれを見た時も、ぎゅっと胸が痛くなった。胸が、痛い、痛い、痛い。

生活の中に地雷が多過ぎて、参ってしまう。

ちょっと踏み出そうと思って外に出ていくと、どうしてもこういう目に遭う。

こういうものを見聞きしても、心が揺れない人っているのかな。

それともみんな、食いしばって平静を装うのかな。

死別の後には、あるよね、こういうこと。

誰も悪くないし、自分だってそれがどうしたと思えればいいけど、全然、全然、まだ思えない。

困ったなあ。食いしばるか、外に出て行かないかしかなくて、食いしばれない私は、自分に甘過ぎなんだろうなあ。命がかかっていれば、確かに食いしばれるもんなあ。

でも、命かかってないからな。もう誰の命も、かかってない。

レディ・ボーデン

今日、ようやく転入届を出した。

本当は、1月の半ばをめどに出す必要があったんだけど、緊急事態宣言中はそれを過ぎても認められるとのことで、月末までに出そうと思っていた。

月末はちょうど週末だったので、今日、朝思い立って、夕方に時間休をとって区役所まで行ってきた。そんなこんなで、今日は2021年の年明け以降、私にとって最も遠い場所へのお出かけとなった。

私がこんな状態なので、親が車で送っていくと言ってくれたけど、大丈夫と言って一人で歩いて行った。なんにも考えずに、ただ両肩にずっしり負のオーラを乗せて歩いたら、普段は徒歩20分の場所にある区役所まで、40分くらいかかった。そうして終業時間ぎりぎりに滑り込みで窓口についた。

転入届を出すと、優しそうな50代くらいの女性が対応してくれた。最初は女性も私に年相応の敬語で話してくれていたのだけど、私が腑抜けなのを見て、最後の方は親しみを込めて友達のお母さんみたいに話してくれた。「転入は1人ね?ウン、それでおうちはマンション?戸建て?転入の日はこれでいいのかな?」私は「うん」と「ううん」を繰り返しながら、頭の中では他の思考がぐるぐる回っていた。

なんで私の転入届は1人なんだろう。なんで私の住民票は1人なんだろう。

なんで私は今、こんな惨めな顔で、実家近くの区役所にいるのだろう。

それに、転入届を出しにいくのが嫌だった理由は他にもあって、夫のことについて質問されたら、どうしよう、と思っていた。

結果的に、私の負のオーラが500%だったからか、単に資料上齟齬がなかったからかわからないけど、「夫と2人での転入じゃないのか」なんてことは聞かれずに済んだ。でも、手続きが終わった時には、まるでそれを聞かれたのかと思うくらい、潰れてへこんだ自分がいた。

これは、とても社会に出ていけないな、と思った。こんな作業一つでこんなにぺしゃんこなっているなんて。ここ数日、気分が特に落ちてるもんだから、余計かもしれない。気分の波は、生理と共にやってくる。元々そこまで生理に影響を受ける人ではないはずなんだけど、昨日はたまたま夫の可愛い写真をたくさん再発見したこともあって、私のぷよぷよのハートが悲しみでぶっつぶれた。

加えて、今朝、父とのちょっとした会話もひっかかっていた。話の流れから、私が「夫が亡くなる前の3週間、私が夫のそばにいなかったことが、夫を極限まで追い詰めた気がしてる」と言うと、父は、私の話をよく聞いて、深くうなずき、「そうかもしれないねえ」と言った。それは、全然想定通りの反応で、私自身否定して欲しくて言ってるわけはないのだけど、それほど深く賛同されると、また違ったプレッシャーを感じて、息苦しくなった。死の責任を背負うことは、生半可なことではないんだな。一人で考えることと、他人に言われることは、また違う。原因追求は穏やかにやらないといけないと、改めて思った。

そんな傷口に粗塩塗るようなことをしているから、今日も重傷のまま区役所に行くはめになったんだ。

 

区役所からの帰り道、私は昔習い事の帰りによく買っていたグリコのセブンティーンアイスを自販機で買った。それを寒風の中食べながら、歩いた。アイスを食べる自分は、ちょっと生命力あるよなと思った。どん底にいるはずなのに、アイスは食べる。そのことに慰められて、慰められた自分にまた、慰められる。それで、横断歩道で突っ立ちながら、ふと思い出した。夫も亡くなる前日、レディ・ボーデンのバニラアイスを食べていた。本当は、私だって、夫だって、ハーゲン・ダッツが一番おいしいって知っている。それなのに、それより安いアイスを食べてる。なんだか、似た者同士だなと思った。それに、亡くなる前日の夜だったのだから、その頃は夫だって死ぬほど苦しかったはずだ。でも、アイスは食べていた。

ん、待てよ、ということは、3週間私が離れていた時期も、夫はそれなりにやっていたのだろうか?明日にも死のうと決心している人は、きっとバニラアイスなんて食べないんじゃないか。私は、電話から聞こえる夫の声や反応から、夫がギリギリの中でも、なんとかやってくれていると思っていた。でも、あの期間が夫に死を決心させたとしたら、それは私があまりに夫を理解していなかったし、苦しめてしまったと、とても悔やんでいた。でも、あの人は前日まで、アイス食べてたのか。それなら、やっぱり、前日までは、なんとかやっていたのだろうか。それで、亡くなる当日の、あの一連の流れが直接の引き金なんだろうか。私にとって、夫の死が計画的なものだったのか、衝動的な事故のようなものだったのかは、大切なことだ。どちらの場合も、死という結果は変わらないし、それだけ苦しかったということではある。でも、前日まではアイスを食べて、少し気楽に過ごせる時間もあったのかと思うと、ほんの少しだけ救われる。自分が夫に与えた苦しみは、少なければ少ない方がいい。私にも見放されたと思ったまま亡くなっていたら、本当に悲しくて、私は亡くなった夫をゆすり起こしてでも、全力で愛していたと伝えたい。

なんでもかんでも、こじつけしかできないのだけど、今日は苦しい中でアイスを食べて、夫に思いを馳せた。そこでアイスのつながりが生まれた。それで、ほんのちょっとだけ救いがあった。ほんとうに、ちょっとだけだけど、今日はそれがよかった。

死にたいという気持ちを受け入れること

大切な人が心の病にかかり、亡くなった場合、残された人は考えることがたくさんあって、とても忙しいと思う。あっちのことを考えた次の日は、こっちのことを考えて、どれも解決なんてしないし、自分という人間の未熟さとずるさを、ただひたすら実感し続けると思う。

大切な人が幸せだったとき。

大切な人が悩み出したとき。

大切な人の様子が変わり出したとき。

大切な人が発症したとき。

大切な人の症状がおさまったとき。

大切な人の症状が再発したとき。

大切な人の症状が延々と続いたとき。

大切な人の人生が終わったとき。

そのそれぞれの時期に、自分がとった行動や、放った言葉が、いかに的外れであったかを思い出す。そして、事態は次のステージへ進み、悪化し、進み、悪化し、最後に命は尽きてしまった。それに沿うように、ずっと自分はいた。でも、大切な人がどれだけ苦しんでも、自己中心的な考え方を捨てられなかった。自分がこの苦しすぎる闘病を支える生活から楽になるため、助かるために、大切な人にどうなってほしいか、それが叶わないとき、自分がいかに惨めか。そんなことばかり考えていた。

夫が亡くなってから、私は過去のそれぞれの段階を思い出して、夫がどんな様子だったか回想し、その一番近くにいた自分が力になれなかったことを、毎日毎日、悔やんでいる。私が生きていくのであれば、一生こんなことはしていられない。魂を削るような作業だと思う。でも、私が生きていくのであれば、必要な作業でもある。これを乗り越えられなければ、私の場合、おかしくなってしまうと思う。このことに向き合う自由、苦しむ自由、嘆く自由、この自由を享受していることが、今の私にとっては、とてもとても大切だと思う。その意味でも、今のところ家族から「泣きすぎてうるさい」とか、「近所迷惑だから」とか、「いつまでやってるのだ」と言われないことは、ものすごく有難い環境だと思う。ついでに、「カウンセラーに話してみたら」とか、「医療にかかってみれば」と言われないことも、私は有難い。今、必死に必死にもがいているので、もうしばらくこの家の中で私という存在を抱えていてもらえるとありがたい。せめてもの家族サービスで、おばあちゃんの膝の運動と散歩は付き合うから・・・。

誰だって、自分の命をかけて守ろうと思う相手が亡くなったことを、サラッと流せるわけはない。普通にしたり、平常を装う、そんなことでこの悲しみを乗り切ろうとしたら、私は絶対に自分を許せなくなる。大切な夫の死という結果を防ぐことができなくて、私は私自身を許せていない。ここで向き合わなければ、私は私に失望してしまう。だから、私なりの底の底まで落ちて、あとは這い上がるだけ、というところまで行かないと、3年後、7年後、10年後とずっとしこりになって残るんじゃないか。自分に対して言えることは、そのための猶予は幸いたくさんあるということ。焦る必要はない、ずっと苦しんで悲しんでいればいい。自分自身、その底がどこなのかはわからない。きっと、底をついたときには、街中のきらめきに少し気持ちが動いたり、素敵な人に出会って気持ちがときめいたりするのだと思う。底をつくまでは、そんなことを自分に許していないし、そもそも街中に出ていない。

それでも、病んだら終わりだ。負けてしまう。自分を失わずに、悲しむ。これはとても難しいことだし、その人の先天的な鈍感力とか、自己愛の強さも影響すると思う。生存のための健全な自己愛が強ければ、きっと自分を滅ぼさずに底まで行き着ける。でも、その途中で自分がおかしくなってきている、と思えば、やはり医療にかかった方がいいんだろう。

おかしくなると言えば、死にたいという気持ちが、おかしいのか、おかしくないのか、これもとても難しいことだと思う。側から見たら、私の状況でも、「あなたは死ぬ必要はない、生きるべきだ」と言いたくなると思う。でも、夫がいない世界というのは、私にとって、生きたくない世界だ。夫に会いたいとか、夫のために、とかじゃなくて、もう生きたくないな、と思ってしまう。この気持ちは、本当におかしいのだろうか。この気持ちも含めて、理解されることが、今の私が生きる可能性につながるんじゃないだろうか。死にたいと思っていても、生きていて良い。猶予は、いくらでも、いくらでも、ある。その状態を咀嚼して、自分自身を許せるようになるまで、私はずっともがいていて良い。そう言ってくれる世界でなければ、もし今すぐその思想を捨てられなければおかしいと言われる世界では、私のような人間は、生きられなくなる。

あんまり考えたことのなかったことだけど、色々と世界は深いなと思う。

週末のルーティン

このところ、なんだかイライラしてるなと思っていた。

どことなく、周りに対する破壊衝動みたいなものを感じていた。

夫に対して私が怒りを持つことは適当ではないし、冷静な時はそう思うんだけど、このところのイライラは、夫にまで怒りを芽生えさせてしまうようなものだった。

でも、夫に怒ったところで、言いたいことなんて、全部夫のせいではないことばかり。だからマグマみたいに腹から喉まで登ってくる怒りを夫に向けたって、それは全然、自分で納得できる怒りじゃなかった。

多分何かに対して、とか誰かに対して、というよりも、全てに対しての怒り。夫の、私の、2人の、運命に対する怒り。過去を振り返ったときの後悔からくる悔しさのような怒りだけじゃなく、どこからどうやって生まれてきたのか説明がつかないような、もっと真っ黒な怒り。言うならば、幽白の飛影が腕から出す黒い龍みたいな怒り。これが今日も日中から私を突き上げて、対処のしようがなくなった。

夕方から、物にあたりだした。勉強机をバンバン叩いたり、ティッシュ箱を踏み潰してみたり、ソファを殴ってみたり。本当は、ガラスを割ったり、部屋に火を付けたいけど、それを自制した。怒って、怒って、泣いて、怒って、泣きながら叫んだ。叫ぶ声は、キャーとかじゃない。腹の底から、野太い声で、ぐゔぉおおおおおおおおおと何度も絶叫した。私はとにかく、怒っているのだ。夫の遺影を睨みつけた。全然夫は悪くないのに、トバッチリだ。夫なんて私に殺されたようなもんなのに。私はあんなに支える時間があったのに。その時に支えなかったのは私なのに。そう思いながら、睨んだ。

そして手持ち無沙汰にになり、音量MAXでまたオザケンをかけた。オザケンをかけると、気持ちが恋愛モードに変わっていく。ちょっとずつ、ちょっとずつ、怒りが溶けて、夫への止まらない慕情に変わり、涙が流れる。

そうして、今に至る。こんなことばっかりしているんだけど、やっぱり死別後の一番のヒーリングは、泣き叫ぶことだと思う。死別のような苦しみを、ましてや夫のような死に方を、効率的に、スマートに、淡々と乗り越える人なんて、いないと思う。こんな時、正解は一つ!泣きまくる。そして、悔しい時、怒れる時、悲しい時、その感情をその涙に思いっきり乗せる。泣いていていいんだ。今の私は、泣いていることに生きがいを感じているんだ。それ以外何もいらない。泣く自由さえあればいい。

そんな夕方を数時間過ごして、夕飯になる頃には、けっこう気持ちがすっきりしていた。今は35歳だから、40歳くらいまでは泣いて暮らしていればいいやと思えた。それで、大好きなお菓子を食べて、お酒を飲んでいればいいや。長生きすら目指す必要なくなったし、それでいいじゃないか。それでもし、夫の死を受け入れることがあれば、また次に向かえばいい。私はとにかく今は、泣き叫んで、野太い声でご近所さんたちを引かせながらも、とにかく悲しみに頭をぶっ込んでいればいいんだ。

激しく泣きまくって怒りまくった日は、自分の現状についてはそんな気持ちになれた。

夫のこと考える時は出口がないけど、自分については、簡単なもんだな。

花金

花金。

いつも夫と、金曜日はそう言い合った。

「花金だし、行っちゃう?」なんて言って、近所のお店をはしごした。

1軒目はその日の気分で色々候補があった。

大衆居酒屋もあれば、イタリアンもあれば、串揚げもあったし、沖縄料理のこともあった。寿司もあったし、中華料理もあったし、インドカレーとか天ぷらのこともあった。そんな店を1軒、2軒回った後で、最後に行き着くのは、アパートから100mのところにある焼き鳥屋さん。毎回お兄さん達が寡黙に、せっせと焼き鳥を焼いていた。お兄さん達とは、毎週金曜に会う顔馴染みのようでいて、絶対にお互い私語はない。親戚以上の頻度で会っているのに、毎回初対面のように接する。シャイで不器用な私たちには、これが異様に居心地がよかった。

この店に通い出すまで、正直私は焼き鳥を美味しいと思ったことなんてなかった。

私が知っている焼き鳥は、会社の宴会コースででてくるもので、いつも冷めていて、硬い肉だった。ただ社交的な会話をする間に、無意識に口に運ぶ食べ物だった。たまに人数分なくて、串から外して食べなきゃならない面倒な食べ物。でも、この店に通い出してから、焼き鳥って、こんなに美味しいんだ!と思うようになった。

1本を炭で焼き上げるのに、すごく長い時間がかかる。

鶏皮なんて頼んだ日には、永遠にこない。でも、いつもカウンター席だったので、オーダーが忘れられている訳じゃないとわかった。夫と私の鶏皮は、2本並んで、ずーっと網のすみっこの方で、丁寧に焼かれていた。

あのお店で、赤星なんて言葉も覚えたし、緑茶ハイっておいしいなあ、とか、梅干しサワーもいいなあとか、学生の時には知らなかった楽しい世界を知った。

毎週毎週、夫と遅くまでカウンターで話し込んで、ほんとに楽しかった。なにをあんなに一生懸命話していたのかなあ?多分、あの頃の思い出に対する気持ちは夫も同じ。日本の中で、こんなに幸せに暮らせる街があるんだ、って思うくらい、生活が楽しかった。

あのお店に通うカップルは、今でもその至高の時間を過ごしているんだろうな。

あのお店のカウンターに座って、2人で一緒にメニューを見て、瓶ビールの方がジョッキよりちびちび飲めるかな、いや、でもやっぱり生だよね、なんて会話してるのかな。

私の宝物の時間と、あの時間の中にいた宝物の人は、一体どこに行ってしまったんだろう。こうして実体験の記憶として全て思い出せるのに、そんな幸せが夫と私にあったことすら、信じられないくらい、そこからの数年間と、最後の結末は、悲しい。

私は毎日、家で神妙な顔をしているみたいだ。神妙な顔をしていたいというよりも、神妙ではない顔をしている自分が許せなくて、常に眉間にシワが寄る。顔が薄いので、深いシワは寄らなくて、寄っていると思って鏡を見ると思ったほど寄っていなかったりするんだけど、なにか怪訝そうな顔はしている。

他の家庭にあることかはわからないけど、うちの親は夕飯になると、「今日はビール飲まないの?」「お酒でも飲めば?」と言ってくれる。そんな子供にドーピングを勧めてくれる親は世の中あんまりいないんじゃないかと思う。最近はお酒を飲んでも、気分が軽くならなくて、飲む意味もあんまり感じられない。

体調を崩した後、夫が、布団に寝っ転がって言っていたのを思いだす。

「全然酔わないのよ、緊張してて」

私が「へえ」と返すと、夫に「フッ」と笑われた。

夫は、自分が緊張したり、脅かされた気持ちになるのは、きっと私の仕業と思っていたので、シラを切る私に、思わず笑ったのだと思う。「わかってんでしょ」、と。夫だって、いつもみたいに私に気持ちを吐露したいのに、吐露した瞬間に、後悔していたと思う。あいつにまた弱みを見せてしまった、みたいな感覚なのかな。

そんな夫が経験したことを、もっとずっと生温いレベルだけど、私も追体験している。

私が酔わないのは、なんでだろう。私の中には、悲しみと悔しさと怒りから成るどす黒い鉛のような塊が鎮座している。アルコールを飲んでも、この黒光りする塊の側面を流れ落ちるだけで、何も気持ちが楽にならない。気持ちが、心が、固まっている感じ。

場面を変えれば、今の私だって、心がもっとぷにぷにしてることがある。おばあちゃんの膝のリハビリのために毎晩一緒にやっている筋トレのときは、エアロビの先生のように声かけしている。でも、一人になると、現実に向き合うと、本当にダメになっちゃうんだよね。

それも当然、当然と自分で言い聞かせて、でも脳の大半は、夫とのこと全てを、ずっと後悔してる。

花金の話を書きたかったのに、結局暗い話になってしまった。要は金曜になると、夫とおいしい焼き鳥を食べてケラケラ笑って過ごしたい、という希望だけ書きたかった。もう叶わないけど、書いておく。

はなまる

昨日は、会社からの意見聴取の2回目だった。

おじさん3名 VS 私1人。「VS」なんて思っていたのは、私だけかもしれない。でも、緊張しないように頑張るぞ〜なんて、事前にリラックスに効くアロマ を焚いて挑んだ。

面談が始まり、最初に相手の方が、前もって私が提出した意見書を、3人とも熟読したと教えてくれた。その上で、何か最初に言っておきたいことがあれば、と話す時間をもらった。マイクを向けられて、私は力強く、意気揚々と意見を述べた、なんて言いたいところだけど、本当は一言、二言述べたところで、夫の顔が浮かんで、無理だった。そりゃそうだ。こんな行動に出ているの、自分が夫のことで悲しみがあまりに大きいからなんだよね。それで、オンラインの面談だったんだけど、カメラを消させてもらって、涙を落ち着かせて、そのまま話を続けた。

そこから、1時間半くらい、対話させてもらった。私が最初に連絡したトップの方からは、2つ指示があったという。「具体的な改善策を考えること」「みんみんさんが辛い中で声を挙げた勇気にしっかり向き合うこと」。私は元からバカみたいな性善説だけど、なんだか有難いな、私が信じる人は、ちゃんと希望を与えてくれるな、と思った。

この日お話した3人の方々も、私の提案をとても寛大な心で受け入れてくれて、救われた。これだけ色々と社内の制度や体制が整備されれば、1人で奈落の底に落とされるような社員は減らせるかもしれないと思った。もっともっと、救ってほしい。誰も誰かのことを苦しめたいなんて、本当は思っていないはずだ。だから、予防策とか、起こってしまった後でも再発防止策とか、そういうものを徹底することは、とても大切だと思う。

また後日、私の意見書にある提案に対して、回答をくださるとのことだった。私は今の私にできることはしたから、しばし待つ。

これは夫に関係することと言うより、私自身の問題だけど、夫が今頃生きていたら、どんな風に応援してくれたかな。「頑張っててエラいね。パワハラは困っちゃうね。みんみんの勇気は、はなまるだよ」なんてメッセージかな。なんか、素朴で、優しくて、私が一番ホッとする声をかけてくれるんだよね。

夫はよく、私にはなまるをくれた。私が単身赴任で自炊してる写真をしつこいほどに送ってたときも、野菜が多いね、とか健康的だね、とか美味しそうだね、と言って、「頑張ってて、はなまるだよ」って付け加えてくれた。わたし、夫からのはなまるが欲しいな。まるじゃなくて、はなまる。私も、夫に、何重ものはなまるを伝えたいのに。夫は、間違いなく、はなまるなのに。ちょっとでも今、この気持ちが伝わるといいな。