優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

悲しみの周期の自己分析

自分の中の気持ちの振れ幅が相当ある。

ベースとなる気持ちの基準点は、基本変わりない。心ここにあらず。全てが非現実的な感じ。現実として直視できない。「それで私は何してるの?何のために生きてるの?」と問い出すと、一気に何かが音を立てて崩れそうな感じ。私は存在しているけど、自分が存在しようと思う意思はない。自分が今を生きる、存在するという意思を持たない感覚は、初めてだ。それくらい、自分が空っぽ。空っぽというより、実存する意思がない。本当の意思では、今、この瞬間に、全てが終わってほしい。自分がこの世に存在していることと、自分の身に起こったことと、その意味やら、意義やら、考えることができない。考えないと、地に足をつけられない。でもこれらの一つ一つを、ルービックキューブのようにがちがちと合わせていくと、とんでもない事実にぶちあたってしまう。合わせると苦しいので、今は、ぐっちゃぐちゃなままになっている。そのまま、そこらへんに転がっている。

基本の状態はこんなところで、ひと月を通じて、この状態からさらにアップダウンがある。私の場合、ここ数ヶ月を見ていると、そのアップダウンは予測可能なようだ。どうも、そのパターンが私自身のホルモンバランスの周期と連動している。これまで私はずっと、自分が理性的な生き物であり、ロジカルシンキングが得意だと思ってきた。感情に流されるよりは穏やか(自称)だと思ってきたし、理不尽や理屈の通らないことはよくないと思ってきた。冷静沈着とはいかないけど、合理的だと思ってきた。けれど、そんな生き物はおそらくこの世にいない。きっとこの世で最もロジカルシンキングができる人は、自分が理性を持ち合わせない時が多々あると自覚している人なんだろうな。やっぱり自覚とか、当事者意識とか、大事。

とにかく、こうして私は月に1回、1.5週間くらいの期間に亘って、自分のホルモンやら体内物質からの影響を、大いに体験している。散々ここまでロジカルシンキングを持ち上げてきた気もするけど、実感としては、自分の本音とか、真実に近い感情は、実はこの1.5週間のうちに感じているものだと思っている。この期間は、普段理性で押さえ込んでいる色々な感情が剥き出しで、悲しみも、苦しみも、怒りも、悔しさも、ド直球でやってくる。夫の死が、骨太の事実として自分にバコーン!と除夜の鐘つきのように衝突してくる。それに吹っ飛ばされて、感情が暴れて、もう大雨、大嵐。吹き上げられて、叩きつけられて、最後は力尽きて泣き止む。こういう悲しみって、何度振り返っても、人生で経験したことなかったな。

この期間中は、1日のうちに、4回も5回も泣く。そして、都度、全力で泣く。ぽろぽろと泣くのではない。ぎゅうぎゅうと息を殺して全身をこわばらせながら、長い時間泣く。気づけば、目の周りに赤い班点ができている。この斑点はなんだろうと調べると、検索結果に〇〇小児科とか〇〇こども医院みたいのが並んでいる。どうやら、乳幼児が全力で泣くときに、毛細血管が切れてできるものらしい。母親に聞いたら、「私もお産の時にできた」だって。そうか、これは乳幼児や大人のお産レベルで力んでるのか。

今は毎月の周期の中でも嵐の後の静寂期。嵐が去った海で、ぷか〜と水面に浮いている心地。夫の死に向き合うことを欲さないし、向き合うのが実はちょっときつい。怖い。何事も深掘りしない。遺影と目を合わさない。無気力。泣くことも、1日に1、2回で、短時間。何も進んでいる気はしないし、夫のことは考えられないし、休息期と思うようにしているけど、自分に休息する権利なんてないと記憶が教えてくれるので、自己嫌悪もちらつく。それでも、一番激しい時期に感じる自己嫌悪とは雲泥の差で、とにかく全てお気楽だ。

いつもこうして自己分析した上で、結局どの状態なら良いなんてことはなくて、全部意味ないと思うんだけどね。究極論とは、残酷だなあ。