優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

おたまじゃくしはどこまでも

今日は、今年はじめてくらいに、外の気候が春めいているのを感じた。

もちろん、引きこもりの私は家の中から見ただけだけど 笑

これまでの冬一辺倒の雰囲気とは、だいぶ違う。

私は、春夏秋冬、どの季節も好き。

春は、気持ちが上ずって、そわそわする。

春には、春ならではの空気感がある。

冬の間、ずっと眠っていた生命が芽吹く感じとか、そこから蕾が花開いていく感じ。ちょっと前まで、寒々しかった景色の中に、淡く可愛らしい色がぽこん、ぽこんと置かれていく様子。人間も、出会いと別れを経験して、人としての深みや経験が重ねられていく感じ。寂しさとか、嬉しさとか、いろんな感情が重なって、ちょっとドキドキして過ごす。そんな中で、春の暖かい日差しを浴びて、少し甘い空気を吸い込むと、冬の間に縮こまっていた体がぐーっと伸びて、ほぐれる。

今年も、もうすぐそんな季節が始まるのを感じる。

今年の私は、どんな風に春を迎えるのだろう。

私は春ど真ん中に生まれたので、なんとなく春に親近感を抱いている。

私の誕生日は、いつだって春爛漫の中で、人にも、自然にも、祝福されるように過ごしていた。年齢が年齢なので、誕生日を迎えることは嬉しくはなかったけど、その日の特別感とか、祝ってもらうことの喜びは、何歳になってもあった。今年は、どうだろう。もう、そんな明るくて幸せな誕生日は、こないんだろうと思う。今年の誕生日は、今から憂鬱で、怖くて、自分が夫の知らない年齢になってしまうことが、やっぱりすごく悲しい。全然、楽しみなんて、ひとつもない。

普通に生きているだけで、どんどん夫から引き離されてしまう。1日1日を乗り越えることが、今私に課せられたことで、それを達成するために生きているのに、その試練を乗り越えれば乗り越えるほど、夫が遠い存在になっていく気がする。

今日は夫が買ったコーヒー豆でコーヒーを淹れながら、こんなことができるのも、時間の問題だなと思った。今、私はまだ夫に囲まれて生きている。主夫であった夫が買ってくれた食材を食べたり、日用品を使ったりしている。これ、まとめ買いしてくれてたな、とか、一度もストックが途切れないように、一生懸命やってくれていたな、とか、色々思う。毎日思う。毎瞬、思う。こういう夫の温もりみたいなものが心の拠り所になっている。これが、消耗品で、有限だから、食べたり使ったりすればするほど、一つ、また一つと、減っていく。それが苦しいから、消費するか、しないか、迷ったりもする。

何がいいのかは、自分でもわからない。私の部屋には、夫がくれたプレゼントがたくさん並んでいるけど、夫だけいなくなって、プレゼントだけ当時の形のまま完璧に残っているのもまた、ずしんと重たい。目にして嬉しい瞬間や、愛おしく感じる瞬間もあるけど、ただ悲しみだけ感じることもある。だから、減っていくもの、消費していくもの、なくなっていく温もりも、ある種大事なのかもしれない。

本当は、こんな自分のことは、どうでもいいのだけど、考えやすいから、そっちに逃げてしまう。こうやってぼんやり考えているときは、自分の気持ちが、頼りないおたまじゃくしみたいに、暗い中をひょろひょろ泳いでる感じ。どこに行けばいいのかわからないし、絶望の渦中からも逃げている。人生を盛大に祝福されていたおたまじゃくしは、その全てを失って、これからどうやって生きていくんだろう。虚しいし、悲しいなあ。